夜中、時計をみたら2時10分金縛りにあったように身体が硬直し、肩もコチコチ、眼圧も上がっている感じ、そして何より寝汗がすごくてびっしょり。
ああ、これって熱中症? うんうん唸りながら、落ち着くのを待った。
なんとか薄目を開けて階段を確認しながら階下へ。トイレに行き、水を飲み、階段に座り込んで浅い深呼吸…ほどなく鎮静。
風邪が治り足の調子もまずまず、捻った手首も回復、(人間なんて案外強いな)と。猛暑の中少し張り切りすぎたかもしれない。
明るい展望なんて、持ちにくい。今日が無事すごせれば御の字。情けないけど今のわたしを受け入れて、ゆっくり…牛歩で行きましょう。
『永遠の明証』
裸婦である、しかし何故か、身体は五つに分断されてフレームに納まり、立てる婦人のごとくに縦列の状態である。
永遠の明証というタイトル、女性の肉体と言うだけならば、このようなプロセスは無用であるが、ここに明証があるという。
あたかも鑑賞者の底意を覗き込むような眼差し、胸、陰部、膝から上、つま先から上の各部位は、なぜ切断されねばならなかったのだろう。しかし切断されても、つなげて見るという眼の操作・心理は働く。そして、やがて《手》がない、欠けているという事実に気づく。
手はある意味《能動的》であるが、ほかの部位にはそれが希薄かも知れない。
女は誘うことは出来ても、自ら能動的な行為に及ぶことは無いという明証なのだろうか。
女性の性の本質を衝いているかもしれない。
(マグリットは『巨人の時代』で暗にそれを否定し、つまりは同等の立場であると言っている)
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
おやおやとおもつてゐるうちに上からばたつと行李の蓋が落ちてきました。それでも日光は行李の目からうつくしくすきとほつて見えました。
☆講(話)の理は、我意の絡(つながり)である。
実(中身)の講(話)には恒(常に)理(取りさばく事)が黙って現れる。
それどころか、アマーリアが彼になにかひと言でも言うと(そういうことは、めったにないのですが)たちまちアマーリアに反駁するようなことまでしました。それもまっこうから反駁するのです。わたしは、この束の間の喜びを許してやりました。
☆アマーリアが彼にひと言いうと、(十分珍しいことですが)再びなるほど原則に基づいた話をするのです。