『新聞を読む男』
四分割された画面は全く同一の室内空間である。そのうちの左上の画面にだけ新聞を読んでいるらしい男の姿がある。
後の三画面(三部屋)には『新聞を読む男』の存在がない。
存在と不在。有ることを中心に考えると、無いことが露呈する。
無いことを中心に考えれば、有ることに不信を抱くだろうか、否。無いことは中心にはならないからである。
人物の存在は物の有りようを凌駕する。新聞を読む男の存在は重く、室内の傾向は観念的であり多くの関心を惹きつけない。タイトルとの関連もあり、『新聞を読む男』の印象は重ねて意味を帯びてくる。
つまり、ほかの部屋の『不在』であるという事実を浮上させる。
心理的、実験的な配置を成したこの作品に間違い探しのような探索の眼が生じてくる。しかし、『新聞を読む男』がほかの同一の空間(部屋)にも同じように存在していたなら、それはあり得ないことであり、非現実的な空間あるいはむしろ平面的な連続として処理されるだろう。
『新聞を読む男』は、存在を問い、存在の重みを感知させ、不在の量感を図るものである。
存在によって知る不在の軽重に不意を衝かれる思いがする作品である。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
二人のかげがまつ黒に草に落ちました。
二人はジ・トと読んで、字、図。
まつ黒はコクと読んで、告。
草はソウと読んで、双。
落ちましたはラクと読んで、絡。
☆字の図りごとであると告げる。
双(二つ)の絡(つながり)がある。
こうなると、頼りになる相手は、バルナバスしかないのですが、バルナバスは、まだ若すぎました。わたしの報告を聞くとき、あの子の眼はきらきらとかがやきました。それ以来ずっとあの子の眼から消えずに残っているあの輝きです。
☆とどまり続けているのはバルナバスだけですが、バルナバスはまだ非常に新しいということです。わたしの報告に眼を光らせ、それ以来ずっと光輝を放っています。