夏も終わりに近づくと、どこか郷愁さえ感じるようになるのは不思議である。
あんなに暑かった夏も山を越えたのだという安堵、秋に向かう期待と一抹の寂しさが入り混じる。一歩踏み出し、一歩抜け出したという感慨である。
夏休みの間中、嫁ぎ先の娘さん宅へ出向きお孫さんのお世話をしていたというAさんも「あと少し」と、言い、「夏休みの宿題に『星の観察』というのがあって、パパとママは御殿場まで車を飛ばしたわ」と、笑った。
ああ、うちの孫の夏休みの宿題はどうなっただろう。
あっけなく終わろうとしている夏休み、夏の終わり。
身体の不調も回復したのに、どこかへ出かけようとする意欲がわかない。巻きなおし、心機一転の気概は・・・。
だれか背中を押して~。
だれか「よーい、ドン!」のピストルを撃ちならして!
もう少し(?)なんだから、楽しく面白く行きたいな!
『イレーヌ・アモワールの肖像』
三枚の手鏡が平面状にあり得ない状態で立っている。
波静かな青い海・青い空を分ける水平線の条理を、被うように立っている不条理な三枚の鏡。
それぞれ赤い炎、映ったイレーヌ・アモワールの真摯な眼差し、馬の鈴(主張・言葉・発言)が描かれている。
左端には建物があり、それは後ろ盾のようにも、そこから飛び出しているようにも見える関係である。
イレーヌ・アモワールという人の肖像…情況や性格を的確に、しかし暗に仄めかした彼女の肖像である。(鏡という構成は〈自己愛/ナルシズム〉を現わしているような気がする)
彼女は燃えるが如くの情熱をもって世界を見ている。垣間見える真実はあるが、それは危うく根拠に欠けるものではないか。粘っこい言説には少々目を背けたくなる。彼女の後ろ盾である友人の存在によって辛うじて認めざるを得ない関係である。
社交的で美しく毅然とした顔立ち、男にも引けを取らない押しの強さ・・・(首の太さを強調し、その強引さを暗示しているのではないか)
彼女の主張は立派に立ち上がってはいるが、それは彼女の持つ魅惑的な幻想にすぎず、彼女の存在と共に倒壊は免れない不安定なものである。
という想像を、失礼ながら掻き立てるような画面構成の肖像である。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
「声あまり高い。しづかにするよろしい。」
山男はさつきから、支那人がむやみにしやくにさはつてゐましたので、このときはもう一ぺんにかつとしてしまひました。
☆照(あまねく光が当たる=平等)の講(話)である。
太陽の談(話)は詞(言葉)を納める図りごとが逸(隠れている)。
従僕たちは、からっきし役にたちませんでnした。わたしは、どうか弟に眼をかけてやってほしいと頼むと同時に、従僕たちがわたしにした約束を思いださせるような簡単な手紙をバルナバスに持たせてやりました。
☆従僕たちには全く拒絶されました。わたしはバルナバスを従僕に紹介し同時代の約束を思い出させるように先祖の氏族の証明書をバルナバスに渡しました。