続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

『飯島晴子』(私的解釈)石臥の。

2021-04-02 07:09:55 | 飯島晴子

   石臥の嫗の石に冬蕨

 石臥(小さな魚)みたいな嫗(おばあさん)が腰を掛けた石には冬蕨(粟粒状の胞子をつける実葉)が付いている。どれをとっても極小の景色である。

 石臥はシャク・ガと読んで、綽、雅。
 嫗の石はオウ・セキと読んで、翁、碩。
 冬蕨はトウ・ケツと読んで、読、傑。
☆綽(ゆったりと落ち着いている)雅(風流な)翁は碩(大きい)。
 読(文章などを読んで理解する)傑(優れた人)である。

 石臥はセキ・ガと読んで、戚、我。
 嫗の石はオウ・セキと読んで、圧、斥。
 冬蕨はトウ・ケツと読んで、頭、血。
☆戚(身内)の我(わたくし)に、圧(押し付けるので)斥(押しのける)。
 頭(上の)血(血縁/親戚)である。

 石臥はセキ・ガと読んで、積、瓦。
 嫗の石はオウ・セキと読んで、応、析。
 冬蕨はトウ・ケツと読んで、蕩、欠。
☆積んだ瓦は、応(釣り合うように)析(分ける)。
 蕩(だらしないと)欠ける。


R.M『レディメイドの花束』

2021-04-02 06:20:35 | 美術ノート

   『レディメイドの花束』

 花束はどこにある?男の背中にはボッティチェルリの人物(女神)その通りに描かれている。確かにすでに描かれた周知の有名な絵である。多くの人が知っている、少なくとも見たことのある女性を背後に描く。知っているか否かというより任意、仮に一つ選ぶならばという設定であるが、この意味は何だろう。女神、女性という鍵は要かもしれない。

 つまり、世間一般、既成の事実を背後に置いているということであり、花束(複数)すなわち、現社会(世間)である。男は当然、この現社会、現代の中で暮らしている、しかし、背を向け、仕切りのある向こうを見ている。向こうに何があるかは定かでなく、単に木々の林があるばかり。林は向こうを明確にしないためのバリアかもしれない。

 自分は世間(現実社会)に背を向けて、見えない向こうばかりを凝視している。見えない向こうとは《大いなる疑問》であり、(なぜ、母は二度と会えない向こう/異世界へ行ったのだろう)凝視し尽くしても見えない世界への深い憧憬。  このボッティチェルリの絵のような美しく明るい世界に背を向け生きている自分、この精神の落差を埋められない・・・。

 世間(現実社会)は、ボッティチェルリの絵《架空》のようだという認識。現実と空想(架空)の混濁、しかし、時空の(仕切り)は飛び越えられない。
『レディメイドの花束』、既成の事実の中でひたすら不可思議な空想を追っている自分がいる。


 写真は『マグリット』展・図録より


『城』3625。

2021-04-02 06:01:51 | カフカ覚書

しかし、二人は、あそこから出ていく気がまったくないのです。あそこで送っている毎日がみじめな生活だということは知っていますが、あの善良な人たちは、もうあきらめてしまっているのです。わたしがあの部屋から出ていくとき、ふたりは泣いてくれましたが、その涙の大部分は、わたしが共同の部屋から出ていかねばならないことを悲しんでくれたのだろうと思いますわ。そうです、わたしは、あの部屋から寒いところへ出ていき


☆しかし、あの霊魂たちは、来世へ連れていかれることを望まないのです。不幸な生活だとは知っていますし、たいていは、そのために悲しんで別れを泣くのです。でも、わたしは共同の部屋(テーマ)から離れ、宗教集団から外へ出ていかなくてはならないのです。