続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

『飯島晴子』(私的解釈)山焼の。

2021-04-15 07:21:06 | 飯島晴子

   山焼の手首をころす雲形定規

 山焼はセン・ショウと読んで、選、奨。
 手首をころす(手首殺)はシュ・シュ・セツと読んで、手、須、説。
 雲形定規はウン・ケイ・テイ・キと読んで、云、経、態、煕。
☆選奨(専門家の目から優秀なものを選んで推奨すること)の手(手法)に須(必要なもの)は、説(主張)だと云う。
 経(常に変わらない)態(ありさま)が煕(光り輝く)。

 山焼はサン・ショウと読んで、惨、象。
 手首をころす(手首殺)はシュ・シュ・サイと読んで、主、酒、再。
 雲形定規はウン・ケイ・タイ・キと読んで、雲、傾、態、奇。
☆惨(いたましい)象(すがた)の主は、酒を再(繰り返す)。
 運(ただよい)傾(かたむく)態(ありさま)の奇(あやしさ)がある。

 山焼はサン・ショウと読んで、三、章。
 手首をころす(手首殺)はシュ・シュ・サツと読んで、須、種、察。
 雲形定規はウン・ケイ・テイ・キと読んで、運、継、逓、記。
☆三つの章を須(必要とする)種(たぐい)を察(あきらかにする)。 
 運(めぐりあわせ)を継(つなぎ)、逓(次々に取り次いで伝える)記がある。

 山焼はセン・ショウと読んで、泉、象。
 手首をころす(手首殺)はシュ・シュ・サツと読んで、取、手、刹。
 雲形定規はウン・ケイ・テイ・キと読んで、運、経、定、気。
☆泉(あの世)の象(すがた)を取(手に入れる)手(方法)は、刹(寺)を運(めぐり)、経(経文をあげ)定(心を集中させる)気(心の状態)にある。 

 


若林奮『日の出、日没(4線)』

2021-04-15 06:52:25 | 美術ノート

   『日の出、日没(4線)』

 日の出、日没に関する体感、空気感だろうか。少なくとも物理的記録ではなく、抽象的な観点である。

 白い台は、空気だろうか、空無だろうか。日の出、日没は、、他でもない《太陽と地球》の関係であり、基点は任意の人の視点にある。

 太陽と地球の関係を俯瞰した日の出、日没の関係はあり得ない。あくまで地上の人の視点からの体感、空気感であるが、ここに感情の移入は見られない。

 刻々と動くものであり、留まるものでない状況を固定化するとはどういうことなのだろう。
 凹凸、細かい連続した刻み、あるいは起伏・・・不連続である。
 永遠に繰り返されると思われる日の出、日没の現象を把握するという実験。提示された作品を凝視すると、細かな波動…がある。つまり、太陽光を授受する地球の状態に関する観察である。日の出、日没が必ずしも晴天による受け身でないことであり、春夏秋冬の太陽と地球の位置関係のズレもあるということである。

 ただこの起伏は、億年の時間から見れば、平板かつ継続を可能とするものであり、客観的に日の出、日没を記録・提示する一つの試みには違いない。


 写真は『若林奮ーVALLEYS』横須賀美術館


『城』3634。

2021-04-15 06:42:48 | カフカ覚書

「春までまだどのくらいあるのだろうか」
「春までですって」と、ペーピは、おうむがえしに言った。
「こちらでは、冬は長いのよ。とても長い冬で、単調ですわ。でも、下の部屋では、だれも不平なんか言いません。寒さにたいする万全の用意ができていますもの。


☆「春まで、まだどのくらいあるのだろう」
 「春までですか」ペーピは、念を押すように聞いた。
 「ここでは冬は長く、とても長い冬で単調です。でも下では誰も嘆いていません。冬に対する確かな安全があるからです」