続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

お久しぶり。

2014-06-20 06:59:43 | 日常
 今朝早くゴミ集積場に向かうと一人の老婦人・・・カートを押しながらやっと歩いている、どうやら腰も曲がっているようだけど(ハテ、誰だろう)・・・。
 ゆっくり、ゆっくり歩を進めている。立ち止まっているのかと思うほどのゆるいスピード。

 近づいてみると、婦人も顔をゆっくりわたしの方に向けた。(ああ、Sさん)

 Sさんは三十年前にはすでに糖尿病を患っているからと医者通い、「ほら、こんなに薬をもらうのよ」と元気よくわたしに振りかざして笑ったのを覚えている。
「一病息災、気をつけて暮らすのが一番ですね」と、わたし。(その頃はわたしもまだ三十代だったのかと愕然とする)
 
 ご近所だけどごく偶にしか会うことのない間柄、取り立てて共通の話題もないので軽く会釈を交わす程度のお付き合い。

 
「わたしも八十三歳になりましたので、こうして朝の散歩をするくらいがやっとです」といい、「外へ出ればどなたかにお逢いでき、お話もできます」と笑った。きちんとした着衣、手入れの行き届いた髪、お洒落な女人らしい物腰は昔と変わらない。
「近ごろは淋しいです。だんだん人が亡くなりますから。お隣も・・・」と、声を詰まらせた。
 確かに近年は数人の方が他界なさって界隈の話題も湿りがち。
「お隣の奥さんなんか、大変だったんです・・・まぁ、わたしは呆けていないだけ幸いです」とつぶやいた。


 明日はわたし・・・。


 運命を静かに受け入れる、覚悟のお年頃はため息交じりに頬杖をつくしか術がない。

『ポラーノの広場』372。

2014-06-20 06:48:44 | 宮沢賢治
それからアーティストは、私の顔をも一度よく拭って、それから戸口の方をふり向いて、

 私のはシと読んで、志。
 顔はface→Faith(信仰)
 一度はイツ・トと読んで、溢、図。
 拭ってはショクと読んで、属。
 戸口はコ・コウと読んで、己、考。
 方はホウと読んで、法。
 ふり向いてはコウと読んで、講。

☆志す信仰で溢れている。図りごとに属(たのむ)己(わたくし))の考えは、法(仏の教え)の講(話をすること)である。

『城』1658。

2014-06-20 06:26:59 | カフカ覚書
なんとも具合のわるいことだった。というのは、もちろん朝になったいまではふたたび寒さが感じられるほどになっていたが、夜中は暑すぎたために、みんな肌着以外はぬいでしまっていたからである。


☆好ましくないことだった。とはいうものの、先祖は冷たさを見ることから離れていたが、今ではたいへん激昂したために、みんな祖国を後にしてしまったからである。

愛しき日々。

2014-06-19 06:27:27 | 日常
 平々凡々、何と言うこともない日々である。つまらない日常と言い換えてもいいかもしれない。

 この曇りガラスで見ているような空気に風穴を開ける意思、やる気のスイッチをいれるにはどうしたらいいのか。ハタと考えてしまう・・・。
 考える間もなく日常の作業に身体のほうが慣れていて無意識の内に昨日と同じ動作に明け暮れて行く。掃除をしても一陣の風が吹けば元の木阿弥、草取りをしても次から次に繁っていく猛威、洗濯をしても・・・だから・・・。


 いつまでこんな虚しいことを続けるの?(死ぬまで・・・)
 
 この考えは、日常への侮辱にほかならない。

 罰として巨きな石を山頂に運ぶことを科せられたシジィフォス、やっとの思いで運び上げた石は自分が麓に帰りつく前にすでに転げ落ちており、それを日々繰り返すというシジィフォスの神話を待つまでもなく、繰り返される無為とも思える日常。


 悲しいかな、わたしは負の感情に犯された病人に過ぎない。日々の瑣末とも思える作業を歓喜とまでいかなくとも、楽しく嬉しいリズムを持って遂行できたならと、思い返す。


 そう、こんな年になっても、夢見る王子様は必要なのかもしれない。ある日、わたしの許にやってきて「よくやってるね」と褒め、手を差し伸べてくれる王子様がどこかにいると信じる乙女心。平凡な日々が愛しさに満ちた薔薇色に輝く夢想。

 錯覚や妄想を日々の糧として、さぁ、今日も能天気に頑張るゾ。

『ポラーノの広場』371。

2014-06-19 06:16:47 | 宮沢賢治
「さあどうかねえ。」私のとこのアーティストは、私の頭に、金口の瓶から香水をかけながら答へました。

 私はシと読んで、視。
 私はシと読んで、詞。
 頭はトウと読んで、套。
 金口はキン・コウと読んで、襟、考。
 瓶はヘイと読んで、並。
 香水はコウ・スイと読んで、講、推。
 答へましたはトウと読んで、統。


☆視(見える)詞(ことば)を套い、襟(心の中)の考えを並べる講(はなし)を推しはかり、統(ひとすじにまとめる)。

『城』1657。

2014-06-19 06:00:42 | カフカ覚書
   第十二章 女教師ギーザ/朝のいさかい

 翌朝、一同が目をさましたときには、すでに早く来た生徒たちが、いかにもおもしろそうにこの寝床のまわりに立っていた。

 目をさます/erwachten・・・蘇生する。
 erst→arrest/拘留。
 生徒/Schulkinder→Schuld/罪、責任。
 寝床/Lagerstatte→Rage/憤怒、興奮。
 いかにもおもしろそうに/new\ugierig・・・好奇心の強い。


☆拘留から蘇生するかもしれない。拘留された罪の子が強い好奇心で興奮して取り囲んでいた。

揺らぎながらも・・・。

2014-06-18 06:51:11 | 日常
 一たび病気になると、どうしてもマイナス思考に陥りがちである。
「でもね病は気から。陽気・強気の人は治って退院して行くけど、弱気で沈みがちな人は反って重症化する傾向にあるわ」と病院関係者に聞いたことがある。

 いつでも夢を前向きに持って生きていくことは、覚悟が要る。ただ単に目の前の病根にばかり気をとられて自分を見失ってはいけない。いけないと思いつつも、身体が発する痛みが痛烈であれば、目の前は塞がれてしまう。望みなしの状況を振り払う強気も失せてしまうかもしれない。

 
 先日、古い毛布の綻びを直そうと針と糸を持ったら、そこかしこ・・・修復にかなりの時間を費やしたけど、結局近いうちには新品購入を予定せざるを得ない劣化状態。すでに三十余年は使っている代物・・・当たり前と言えばそれまで。

 そんな風に、わたし自身も使用期限が終末に近づいているのかもしれない。膝痛が・・・なんていっているけど、実はどこもかしこも黙したまま自然の摂理で酸化し錆びついてきているのではないかという妄想、気の迷い。


 透析を受けるまでに深刻化した糖尿病患者であった母は、瀕死の状況の中、
「先生、この手(シャント)は治りますか?」と担当医に訪ねた。医師は「治りますよ!」と力強く母を励ましてくれたけれど、翌日から混濁状態になり数日後に死去。長い闘病の果てである。


「治りますか?」(治りません)
 病は気から・・・あの世に逝くその日まで、治ることを信じて突き進んでいく人生でありたい。揺らぎながらも・・・。

『ポラーノの広場』370。

2014-06-18 06:37:57 | 宮沢賢治
「今夜は、毒蛾も全滅だな。」誰か向ふで言いました。

 今夜はコン・ヨと読んで、渾、世。
 毒蛾はドク・ガと読んで、毒、芽。
 誰かはスイと読んで、遂。
 向ふはコウと読んで、講。
 言いましたはゲンと読んで、現。

☆渾(いろいろなものがひとつに解け合っている)世(世界)の毒(わざわい)の芽である前(過去)を、滅(なくす)ことを遂げる講(はなし)を現わしている。

*一つの話の中で、「云う」だったり「言う」と現わしたりするのは、もう一つの話を誘引するに必要な訓の違いから来ていると思う。「漢字(読みによる意味の換言)」だったり「ひらがな(スルー)」と現わしている言葉もある。

『城』1656。

2014-06-18 06:23:34 | カフカ覚書
しかし、フリーダは、なにも見つけることができなかった。もしかしたら、錯覚だったのかもしれない。彼女は、Kのそばへもどってきたが、その途中で、有食のときの話なんか忘れてしまったかのように、うずくまってひくひく泣いている助手の髪の毛をなだめるようにそっとなでてやった。Kはそれにはなにも文句をつけなかったが、もう薪をくべるのはやめろと助手たちに命令した。運びこんだ薪をほとんど焚きつくして、暑くてやりきれなかったからである。


☆しかし、フリーダ(平和)は、何も見ることができなかった。
 先祖のことは錯覚だったのかもしれないが、絞首刑の方法が甦り、終末の話を忘れ、うめくようにしゃがみこんだ。助手(脳、知覚)は、その大群を慰めるようにし、何も言わなかった。ただ、助手(脳、知覚)は、荒地がすべて地獄と化していることに緊迫し、激昂して行くのを感じていた。

サークル。

2014-06-17 06:59:25 | 日常
 ああ、もう一ヶ月は過ぎたのかと、愕然とする。七宝焼きのサークルは楽しみ、時々ため息。
 ため息の原因は幾つも作るアクセサリーが変り映えしないこと。サークルが発足してから三十年近くなるので、わたし達はそれなりの年齢になり講師も同じように年を重ねている・・・。

 時々あと何年続くのかなと思う。メンバーもそれぞれ多少の支障を来している様子だし、無理をしても出掛けて来れることに安堵しているという具合。『転倒にはくれぐれもご用心』が合言葉・・・。

 何だか足も重いけど、月に一度メンバーに会い、講習後の会食/おしゃべりに期待。


 変哲の無い日常のアクセント。長く続けているうちにガラクタばかり増殖。それでも通うことに意義がある?

 いえいえ、それぞれの日常は体調の不具合などの愚痴になりがちだけど、メンバーの一人Sさんの横浜市の球技退会(卓球)でまたもや優勝という快挙を聞いたりすると、嬉しくなる。朗報は活性剤、やっぱり出かけてきて良かったと思いを新たにする。
 同じような年代のメンバー、月に一度の講習会で情報を交換する。目には見えない柔らかで優しい空気に癒される、しみじみとした感慨は他では得がたい。

 こうして無事に教室に通えることの幸福。友人たちがいてくれて、わたしがいるのだという自覚がふつふつと湧き上がってくる。そういう状況に心して感謝すべきだと、慣れきった日常の埃を払拭している。