村の近くでは、どの車道も一本になってしまいますが、ここでは、あらゆる車が気ちがいじみたスピードを出しています。お城の近くでは、まだいくらかスピードがおそいのですけれどね。
☆村(来世の少し手前)の近くでは(死への)進入路は一本道になっていますが、来世ではあらゆる車が突進します。城(本当の死)の近くでは、まだ先祖の死は順当な速度です。
『夕べの徴』
この絵の中には夕べが徴しているという。夕べはやがて夜を迎えるが、夜に至るまでの時間的猶予があるということだろうか。
フレームの内外にはそれぞれ球体があるが、魂(人心)なのか真理としての球体なのか・・・。
フレーム内は不条理な膜で被われた世界の暴露だとすると、この赤いフレームは拘束であり束縛である。不自由な世界の地平には傾きがあり、繁るべき樹木は頭を抑えられているのか、天をも覆う猛威なのか。
それにしても、一本の木(支配者)以外は何もない不毛の地である。湖水(あるいは海、川)にはさざ波が立っている。大波でなくさざ波というのは、鬱積した不満にも感じられる。
しかしながら、地平と見えるものは板目にも見えるが、そうだとすると板状から樹木が生えるという奇怪な情景になり、条理を外した世界の提示である。
しかもそのフレームは、傾斜のある波板の上に直立している。少なくとも見えるかぎり背後は支えるべきもののない虚空である。
時間は止まっている。夕べを待つまでもなく崩壊の危機は予測できる配置の展開である。
落下を余儀なくされる球体への不安、不穏の静止状態は鑑賞者の心理を動揺させるが、作品である以上別世界であり、絵の中の黒々とした山の頂と手前の彩色された世界との溝に通じる計測不能な深い溝がある。
この絵に感じる軽いめまいは大きな溝《虚空》を孕んでいる。
存在をゆっくり不在(不可視)へと導く時間帯である「夕べの徴」に、抗うエネルギーを沈黙をもって誘発する作品である。
雪童子は眼を丘のふもとに落としました。その山裾の細い雪みちを、さつきの赤毛布を着た子供が、一しんに山のうちの方へ急いでゐるのでした。
☆説(はなし)には同(平等)の思いが現れる。
究(つきつめる)絡(つながり)は、太陽の巨きな済(救い)にある。
説(はなし)の釈(意味を解き明かす)望(願い)は、普く着(ついて離れない)。
詞(ことば)には教(神仏のおしえ)が逸(隠れている)。
太陽(偉大な)の法(神仏の教え)を究(つきつめる)。
ときには、朝の八時にはすべてに車がこの道を通っていたかとおもうと、半時間後にはみんながべつの道を走り、それから十分後には第三の道を通り、さらに半時間後にはまた第一の道になり、それからは一日じゅうその道ばかりが使われるというようなこともあります。
☆先祖の汚点は人殺しで追放され、死んでこの道をいったかと思うと、中途半端な死期になり、また別の道で束縛を軽くし、さらに死期で苦しめ、来世に留めます。完全に潜り、しかしながら、いずれの時にも変化の可能性は続くのです。
『夕べの徴』
夕べは夜になる手前であり、漆黒(不可視)を控えた時間帯である。しかし、まだ見えている、その見えているものの危うさ、しばし留まっているように見える不可逆の時空。
全体が微妙に傾いでおり、ズレ落ち消失を余儀なくされる前兆を潜ませている。波板の上に置かれたフレームは、その背後に支えを認めることが出来ないので倒れることは必至と思われる。
第一背後の黒い山々との距離感がつかめないが、至近ではないことは明白であり、この溝には計り知れない虚空がある。
フレームを被っていたらしいカバーの亀裂は一枚のように見えるが、平面に戻すことは不可能な面積と見て取れる。描かれた絵には3個の球体があり、描かれているがゆえに固定されたものであるが、フレーム外の滑降していくような球体と響き合っている。(故に移動の錯覚を覚える)
波板の手前はどうなっているのだろう、深淵、漆黒の不可解な時空が控えているかもしれないが、全ては不明である。
夕べは夜になりやがて朝になるという巡回があるが、フレームや球体などの不安定な傾ぎは、物理的な落下を予想されるのみで回帰はありえない。
この作品に孕む落下・下降・崩壊の予測は、背後の黒い山に吞み込まれてしまうのだろうか。
『夕べの徴』は《夜/虚無へ向かう徴候》の暗示であり、存在すべてが虚空へ傾いていくような不穏な空気感を醸し出している。
(写真は『マグリット』西村書店より)
「ありがたう。」雪童子はそれをひろいながあ、白と藍いろの野はらにたってゐる、美しい町をはるかにながめました。川がきらきら光って、停車場からは白い煙もあがつてゐました。
☆説(はなし)は同(平等)の思いに迫る愛也。
備(あらかじめ用意しておく)帖(ノート)で、千(たくさん)の考えを諦(あきらかにする)。
赦(罪や過ちを許す)の情(おもいやり)を吐く縁(つながり)がある。
あるときこの道が繁盛しているとおもうと、たいていの車がそこを通りますし、またべつの道がはやりだすと、すべての車がそこに殺到します。どういう規則でこうした交替がなされるのかは、まだわかっていません。
☆先祖の汚点が蔓延すると、大抵は来世へと向かいます。また別の先祖の汚点が蔓延すると、死んで(前者は)押し出されます。小舟がいかなる規則でこのようになるのか、まだ理解されていません。
『L.H.O.O.Q』
モナリザの複製画にひげを加筆したもの。
いたずらでよくやる手法であり、ひげを加筆しただけで成人男子に変貌する。女と男の境界が〈ひげ〉であるとは言わないが、ひげは男の象徴でもある。
ひげを蓄えた女性は特有のホルモンのせいもあってきわめてゼロに近い。〈ひげ〉の有る無しは男女を区別すると言って過言ではない。
なぜ女性美の極致であるモナリザを男性に変貌させたのだろうか。モナリザには男性のキメラがあると直感したのだろうか。それとも男女の区別などこの程度のものだという皮肉なのだろうか。
(ヒトの染色体は46本であり、そのうちの2本によって男女が決まる、男はXY、女はXX)ほんの少しの差異・偶然が、男女を決定することへの漠然とした不審・曖昧さ。
男が女であっても、女が男であってもいいという境界線の踏破。
ある意味、生物としての回帰かもしれない。最初から~、その最初はどこにあるのだろう。
デュシャンの空漠・空虚(無)への突破口は、この問題の壁への問いにある。
(写真は『DUCHAMP』TASCHENより)
木の上でしきりに頸をまげてゐる雪狼の影法師は、大きく長く丘の雪に落ち、枝はたうとう青い皮と、黄いろの心とをちぎられて、いまのぼつてきたばかりの雪童子の足もとに落ちました。
☆黙って照(あまねく光が当たる=平等)の景(ありさま)を運(めぐらせている)。
浪(さまよう)翳(かげ)との逢(出会い)を思(考える)。
題(テーマ)を謀(探り)究(つきつめる)説(はなし)である。
絡(筋道)は死における照(あまねく光が当たる=平等)であり、秘(人に見せないように隠している)。
とにかく、父にさいてくれる時間なんかありません。おまけに、お城へ行く道が何本もあるのです。
☆いずれにせよ、父(宿命)には小舟の時間が残っています。死へ向かう方向はいろいろあるのです。