『ローズ・セラヴィよ、何故くしゃみをしない?』
11.4×22×16㎝の小さな鳥かごに入れられた152個の角砂糖型大理石、温度計、イカの甲。
イカの甲は入りきらず頭を出している、つまり開口しているということであり、鳥の逃避を防ぐための容器に、この巨大は無意味である。
鳥かごに収納されたもの全てが無意味であり、関連性を持たない。
大理石も角砂糖型にする意味を見いだせないし、測る意味のない空間に置いた温度計は奇妙な不一致を想起させるだけである。
これらは自然な集合体ではなく、デュシャンの意図による不協和音を奏でる集合体である。
未来への積極的な展望もないし、過去を象徴するものでもない。ただ現存している無為徒労の混在。
ローズ・セラヴィはデュシャンの分身であり、自身に対して「何故?」と問いかけている。
この作品の中のものは無機質というか《生活機能》を持たないものである。つまり《生》を除外されている。『なぜくしゃみをしない?』という問いは《生あるもの》への問いである。
自身の分身である幻(不在)に『生きよ!』と命令している。
この混在・不明の中から抜け出で、「息をせよ」と。
デュシャンは、自身のなかのローズ・セラヴィに『生きよ!立ち上がれ』と命じている。
不在の人間(幻)に『何故くしゃみをしない?』という不条理な問いを投げかけている。生命を持たない無機物質をかき集めても奇跡は起きない。
しかし、それでも問いかける姿勢が、デュシャンの無謀であり意味を拒否した空虚である。
(写真は『DUCHAMP』TASCHENより)
『いちご』は、新宮晋の絵本で可愛いイチゴの世界が展がるお話、とても素敵です。
子供のころ読んだ絵本で好きだったのは、くちばしの長い鶴と短い小鳥がそれぞれの食事に招くのですが、鶴はコップの食器、小鳥はお皿の食器で双方が食べることが出来なかったというお話です。
それから、『ダイコンさんとゴボウさん』のお話は、ゴボウさんが色黒を悲しんで体を洗うのですが、洗っても洗っても白くならず、ダイコンさんは痩せたい一心でやっぱり体をこするのですが…、というお話です。
後述の二つの絵本は、絵本にしては悲しい結末ですが、なぜか心に残っています。
その点『いちご』は、美しくってその世界の内実に引き込まれる豊かさがあります。
大人になると絵本を見ることがなくなりますが、高齢になると、懐かしさから《もう一度あの世界に浸りたい》という思いに駆られます。
「とつといで。」雪童子が丘をのぼりながら云ひますと、一疋の雪狼は、主人の小さな歯のちらつと光るのを見るや、ごむまりのやうにいきまり木にはねあがつて、その赤い実のついた小さな枝を、がちがち齧りました。
☆説(はなし)を導く詞(言葉)を、究めるように運(めぐらせている)。
逸(かくれて)必(かならずそうなると決まっている)説(はなし)が露(あらわれる)。
趣(考え/狙い)を忍ばせた照(あまねく光が当たる=平等)の詞(言葉)の講(はなし)が現れる。
黙って釈(意味を明らかにする)実(まこと)の章(文章)は、死の講(はなし)である。
「そういうこともあるかもしれません」とオルガは言った。「しかし、そういうときそのお役人は、とても重要な仕事をかかえていて、書類が非常に大事か、分量が多すぎるかして、とても持ってくるわけにはいかないのです。こういうお役人にかぎって、馬車を全速力で走らせます。
☆そうかもしれません。と、オルガは言った。そういうときは、しかし、またあいにく終わり(死)はとても重要な事柄で貴重であり、大きいので疲れ切ってしまうのです。駆け足で死ぬようなことは止めなければなりません。
京急汐入駅そばの喫茶店での個展を拝観、覗いてみた。
「ご本人がいらっしゃいますよ」と店主。やおら立ち上がった先生。(う~ん、数年前三浦横須賀教育会館で「本を作る」という講座を受講した時の先生らしいけど、容姿の記憶が全くない)
「私は段ボールフェチで、段ボールを見ると何か作りたくなるんですよ、」(との言葉どおり、世界一簡単な本づくりだった)
すごく楽しい先生だという印象があって、いつか機会があれば…と思っていたところの再会。
「今は、茶紙の薄い段ボールを使ってあれこれ捻りまわしています。これが楽しいんですよ、毎日一作品づつ作っています。着色したり曲げたり貼ったり切ったり…もう自在に楽しんでいます。『ちょっといい線が出たな』とかね。絵の方はアクリルで、ここにあるのはスケッチブックの表紙に描いたものをプリントしたものですが、まあ、三千枚は描いたでしょうね。」
先生のお話は立て板に水、留まることを知らない。
「退職したての生徒さん、何を言うかと思ったら『一本目の線はどこから引いたらいいでしょう』って言うんだ・・・延々。
先生のお話よく分かります。わたしもそうありたいと常々感じていますけど、それがなかなか難しいんです。
楽しいお話、ありがとうございました。先生の域に近づきたいです。昨日もダメでしたけど今日から・・・難しいですね、でも目指していきたいと思います。
『各階に水とガス』
ロベール・ルベル著『デュシャン伝』の表紙に取り付けられたエナメル版。
各階に水とガス・・・19世紀のフランスのアパートに取り付けられたエナメルの看板の模造ということである。
おそらく最新の設備というキャッチフレーズだと思うが、なぜそれがデュシャンを象徴するような言葉であったかが問題である。
水とガス、水は三態の変化を余儀なくされるが、空中にも気体(水蒸気)として存在するし、ガスは当然気体という意味だから、水もガスも当たり前にどこにも存在している。(もちろん当時のフランスのアパートの室内にも)
すでに存在しているものをことさら「有ります」と明記するのは、存在の形態や種類が異なるということである。
同質のものが、文明の進化により、在るがままの形を有効手段に変換される。下に落ちるしかない水を各階という上方へ押し上げる技術、高圧の気体や液化ガスを貯蔵するボンベを備えるという技術によって、『水とガス』は、ただの「水とガス」ではなくなっている。
つまり、「水とガス」は二つのイメージが重複する。持ち続けた概念は否定され、新しい現存が概念を修復、塗り替えていく。
水とガスに対する概念が二重の意味をもって存在することに、《言葉と実存》の振幅を見出したデュシャンへの表敬としての『各階に水とガス』である。
(写真は『DUCHAMP』TASCHENより)
雪には風で介殻のやうなかたがつき、その頂には、一本の大きな栗の木が、美しい黄金いろのやどりぎのまりをつけて立ってゐました。
☆説(はなし)は、普く解(バラバラに離れる)を較(くらべる)。
講(はなし)は、逸(隠れて)翻(形を変えて移している)。
題(テーマ)の律は、黙って備(あらかじめ用意している)。
講(はなし)は、襟(こころのなか)に留まっている。
彼にすれば、オルガの話を聞いているうちにとてつもなく大きな、ほとんど信じかねるような世界がひらかれてきたので、自分のささやかな体験でその世界にふれて、その世界の実体とをもっとはっきり確かめてみようとせずにはおれなかったのである。
☆オルガの打明け話によってほとんど信用できない(不明な)世界に納得した。彼は自分自身の小舟の経験に惑わされ、約束することはできなかったが、全く同様に自分自身にはっきり納得させたのである。
『エナメルを塗られたアポリネール』
サポリン社の小さなエナメルの看板に手を加え『エナメルを塗られたアポリネール』というレディ・メイドにした作品。
文字を見て咄嗟に思いついた文字遊びである。文字の並びに他のイメージを想起することはママあるが、それを作品化するには明確な意図があるはずである。
文字を部分的に入れ替えることで、まるで異なる意味が展く。記号の並びはイメージと密接に結びついているが、一見して、類似性があっても意味は共通の領域を持たないどころか関係性を断ち切られてしまう。イメージあるいは物質の変形は最後までその要素の片鱗を失わないが、文字(記号)にはその関連性は皆無である。
(サポリン社のエナメル)は、(エナメルを塗られたアポリネール)に記号の類似は見られるが、まったく無関係であり、その画の表示の中にアポリネールは不在である。
鏡に映った女の子の後頭部は、画の中の女の子を想起させるが視点を大きずらさなければ映りようがなく、画の手前に後頭部が映る他の女の子が見えないが存在する筈である。
(エナメルを塗っている女の子の画面)に、鏡に女の子の後頭部を書き加えたことにより、画面の手前の空間にいる女の子を立たせたのである。
この作品は、作品からは見えない不在の人物を二人も登場させている。
確かに画の中に一人の少女がいる、しかしデュシャンの加筆により二人の不在の人物をこの画の空間に登場させてしまった。
存在とは何か、記号とは何か。《存在と不在》あるいは《記号の自在性》は、時空に混在しながら世界の仲介を果たすと同時に混迷を浮上させている。
(写真は『DUCHAMP』TASCHENより)
「アンドロメダ、
あぜみの花がもう咲くぞ、
おまへのラムプのアルコホル、
しゆうしゅと噴かせ。」
雪童子は、風邪のやうに象の形の丘にのぼりました。
☆化(形、性質を変えて別のものになる)を査(調べて)粉(細かく砕く)。
説(はなし)が導く詞(言葉)で、普く照(あまねく光が当たる=平等)の恵みを究(つきつめている)。