「だけど、ぼくがあるお役人の橇のなかをのぞいてみたときh、書類なんかありませんでしたよ」と、Kは言った。
☆だけど、先祖の終わり(死)の内側には往復台がみえ、小舟の作用なんてものもある。
これからは実践に対する心構え、演習の方向らしい。その前に学校らしく・・・、
《笹井宏益先生の講義》
地域の中で有意義に生きる様々な論法、自己実現・自我・親和・安全・生理的・・・言葉にするとこういう風になるのかと一つ一つ納得。
学習者としての大人の特徴という項目があったけれど、なるほど(わたしも大人になれたのかな、どうかな)という感じ。学ぶことの意義なんて考えたことがなかったので、改めてご教授いただくと(ふ~ん、そうだったのか)と。
「アートとしての紙芝居」という項目には惹かれた。そう、アートとして地域活性の一助となれば、その思いである。仲間を作り、イメージを共有することで地域との関係を築いていくことを日常化していきたい。
笹井先生、ありがとうございました。
宮崎二美子先生のお姿も・・・、ありがとうございました。
『与えられたとせよ:⑴落ちる水⑵照明用ガス』
裸婦の大股開きは女性を侮辱したかに見えるが、そうではなく両性具有のような現象を醸し出している。デュシャン自身、ローズ・セラヴィと化身したりモナリザに髭を描き足したりして男女の境界を取り去ろうと試みていることは暗黙の条件と化している。
人類の基本形と解釈してもいいかもしれない。
彼もしくは彼女が光(ランプ)をかかげているのは、時空の継続であり、希望・進化である。(しかし、デュシャンはそれがその程度のものだとも言っている)
デュシャンの冷めた眼差しは、海山川そして青空のある地球の風景を愛をもって見つめている。遠い宇宙の任意の点から眺めた故郷は非常に美しく、生命の原点である女体は残酷なまでに醜態を曝しているが、万人が等しく誕生したはずの現場証明なのである。
この作品はヒューマンスケールで位置した二つの覗き穴を覗くであろう不特定多数(総勢)を想定し造られている。
《見えている作品構成》vs《見えない観客》(vsは覗き穴)そしてデュシャン自身は不在である。
『ローズ・セラヴィよ、何故くしゃみをしない?』デュシャンの中のわたし、この裸婦はデュシャン自身であると・・・。
『存在と不在』『可視と不可視』…沈黙の中の熱い思いが、作品の中に燃え滾っている。
「しゆ、戻れつたら、しゆ、」雪童子がはねあがるやうにして叱りましたら、いままで雪にくつきり落ちてゐた雪童子の影法師は、ぎらつと白いひかりに変わり、狼どもは耳をたてて一さんに戻ってきました。
☆霊(死者の魂)の説(はなし)は道(神仏の教え)で悉く接(つなぐ)絡(筋道)の説(はなし)である。
導く詞(ことば)に映る法(神仏の教え)の旨(考え)を吐く。
片(二つに分けた一方)から漏れる辞(ことば)に逸(隠れた)霊(死者の魂)がある。
それに、どのお役人だって、車の窓から外を見て、請願者はいないだろうかとさがす気なんか起こしてくれません。車のなかには書類がいっぱい詰まっていて、お役人たちは、それをしらべているのですから」
☆彼らもまた先祖ではないと判定を下され、食/ハローの窓(死の入口)を捜さないで、外で請願者を捜すでしょう。救いの書類をいっぱい詰め込み、死をしらべているのですから。
『与えられたとせよ:⑴落ちる水⑵照明用ガス』
女はガス燈を掲げているが、火を用いることは総ての生物の中での優位を占めた証である。
火をつないでいくこと、すなわち文明社会の進化であり、山川海の自然を支配できるという錯覚を抱く根拠かもしれない。
羞恥を放棄し、照明用ガス(ランプ)をかざす光景の意図は何だろう。
ランプは、他の生物には決してない人類の誇りの象徴である。本来、秘密であるべき裸婦の淫靡なポーズは性欲なのか生命連鎖の誕生を果たした光景なのか不明である。ランプやレンガ(板戸)の他に時代を明らかにする手掛かりはなく、ランプは単なる象徴だとすれば《人類の始まり》に遡ってみた光景かもしれない。
恥部を隠すのは本能であるが、露わにするのも本能である。
デュシャンがまざまざと見せたもの、それは《本能への刺激》であり、生きる糧にほかならない。
羞恥と欲望への衝動は、太陽系(ガス)の中の水地球の春であり、荒廃した板戸の穴から覗く小さな物語は、未来には霧消していく人類の性の小景である。
その空からは青びかりが波になつてわくわくと降り、雪狼どもは、ずうつと遠くで焔のやうに赤い舌をべろべろ吐いてゐます。
☆悪の世は頗(公平でない)考えにある。
説(はなし)の労(ほねおり)は、掩(隠した)縁(つながり)にある。
釈(意味を解き明かす)は、舌(言葉)で図っている。
お役人たちが村へ出かけたり、お城へ帰ったりするのは、遊びごとじゃないんdすもの。村でもお城でも、仕事が待っているのです。だから、あんなに大いそぎで車を走らせているのです。
☆終わりに来世にいくこと、あるいは城(本当の死)へ再び戻ることは愉快なことではありません。来世でも城(死界)でも、現場不在が留まっているのです。だから、激しい速さで死ぬんです。
『与えられたとせよ:⑴落ちる水⑵照明用ガス』
デュシャンの最大の課題、それは「存在とは何か」である。
水地球である星に生まれた生命体の謎への究明。自身さえも謎であり「在ると思えば在り、無いと思えば無い」という視点から、まるですべてが幻想であるかのような錯覚を抱かせる。
存在そのものが《空》であり、『与えられたとせよ』と、まるでこの世が架空の設定であるかのよう感想である。
《すでに与えられている》ことに対して、『与えられたとせよ』と言う。この解釈は難しい。
(わたしはここに存在している)、しかし(あなたはここに存在しているとせよ)などと言われても困惑してしまう。では、実体はないの?実体はどこに?と言うように実存というものが宙に浮上してしまうという現象をもたらす表現である。
デュシャンは《見えるもの》を《言葉》によって、《見えるものが隠している内実》を露見させている。その内実が(虚無)であったり(根本原理)であったり、見る角度によって変形をきたしたりもする。
落ちる水は気体として不可視にもなり、照明用ガスは灯りとして見えるが本来見えない気体である。
裸婦の性器は本来隠すべきものであるが、作品においては露出というよりクローズアップされている。
見えるものと見えないものの混在の景を秘かにも宇宙スケールで提示し、黙したまま語らないデュシャンに震撼とするものである。Ah・・・。
「カシオピイア、
もう水仙が咲きだすぞ
おまへのガラスの水車
きつきとまはせ。」
雪童子はまつ青なそらを見あげて見えない星に叫びました。
☆遂(やりとげる)には、千(たくさん)査(調べ)推しはかる。
出(あらわれる)赦(罪や過ちを許す)説(はなし)である。
導く詞(言葉)は、照(あまねく光が当たる=平等)を兼ねている。
現れる償(あがない)は、経にある。