渡辺武、元大阪城天守閣館長大いに語る
江嵜企画代表・Ken
西宮文化協会九月行事として文化講演会が9月12日(火)午後1時半から西宮神社会館で開かれ楽しみにして出かけた。講師は元大阪城天守閣館長の渡辺武氏で「豊臣大坂城・徳川大坂城の採石地西宮について」と題して予定時間をオーバ―して3時半近くまでの話を堪能した。不覚にもその日はわずかに遅れて会場に着いた。恒例の山下会長の挨拶が済み、渡辺武先生の講演が正に始まろうとしていた。会場の様子をあわただしくスケッチした。受付での事務局の方の話では既に40名の方が来ておられるとのこと。会場はほぼ満席だった。
渡辺武先生の自己紹介の途中で、香櫨園小学校で学び、西宮市民としてもここ西宮には縁が深い。1962年に大阪城天守閣学芸員に就任した。健康に恵まれ、いつの間にか、今年80歳を迎えたと紹介された。A3サイズ13枚の資料が配布された。あれもこれもお読みいただきたいと思いながら資料を準備していたら増えてしまったと前置き。開口一番、2ページを開けてくださいと話は一気に本論に入った。
昭和34年(1959)大坂城総合学術調査が実施された。本丸のある地点を掘り下げていった。なんと地下7.3メールのところに黒く焦げた跡の残る石垣が姿を現した。これはなんだと、大騒ぎになった。2ページの写真がその時の写真ですと渡辺さん。読売新聞が東京から大阪に進出して間がなかった。「謎の石垣」として大々的に取り上げた。「そんな石なんか、あるはずがないではないか」「いや、石垣についた焼け焦げた跡は、大坂夏の陣で落城したときの石垣に間違いない」「いや違う」と大論争になった。「謎の石垣」の調査が始まった。全てが自然石(花崗岩)を積み上げて造った石垣であることが分かった。徳川大坂城は豊臣大坂城を再建したと皆が思い込んでいた。それが違った。
資料をめくりながら話は進んだ。豊臣大坂城は天正11年(1583)9月に本丸の築城から始まり、天正13年春に完成した。信長の死後、秀吉は、山崎合戦、賤ケ岳合戦を経て天正11年6月に大坂城入りしている。これは第一期。第二期は天正16年春完成した。第三期は工事後の城は壮大で総面積4~500万平方メートルで一般の町屋も存在していた。第四期は秀吉死後の翌年に完成した。
豊臣大坂城は慶長20年(1615)5月8日に灰になった。元和5年(1619)9月、徳川秀忠は北陸・西国諸大名に普請を命じた。大坂城再建は第一期元和6年(1620)、第二期、寛永1・2年(1624/25)第三期寛永5,6年(1628,29)で58大名が堀・石垣工事に動員された。石垣は根石から積み替えた。徹底した造り替えである。徳川大坂城は、本丸、二の丸しかなかった。本丸は浅いところは4メートル、深いところは20メートル盛土した。豊臣大坂城をすっぽりと地下に埋め込んでしまった。豊臣色を完全に一掃する狙いだった。
石垣の石はどこから集められたのか。近くは生駒山系、六甲山系(御影、芦屋、西宮など)、遠くは小豆島、大島その他瀬戸内各地の島々から集めた。産地の石切場跡や石の刻印などからもわかる。
石はどうして運んだのか。徳川大坂城の石垣の石は50万個以上ある。花崗岩で全て統一している。黒田藩の記録には①石切り場での切り出し、②石切り場から海岸への運搬、③船積み、水上運搬、陸揚げ、④陸上運搬(修羅引き)、⑤石積み。土砂堀除け,湧き水くみ上げなどである。
豊臣大坂城に話を戻す。渡辺先生は資料4ページを紹介した。羽柴秀吉が採石、石の運搬などについて事細かに書いた定書を筑前守の花押を押し関係大名に出している。採石に従事する期間は野陣をはるか大坂に宿をとる。百姓たちに理不尽な要求はまかりならぬ。規定に反すれば成敗すると書いた。
渡辺先生は、5ページに西宮神社蔵の天正11年8月29日付けの羽柴秀吉定書がありますと紹介された。そこには百姓に理不尽な振舞なきこと、田畑荒らすべからず、勝手な宿とりまかりならぬ。違反者は成敗すると認め、摂州、本庄,芦屋郷、山路荘宛に出されている。「まだまだわからないことだらけです」という渡辺武先生の言葉が特に印象に残った。(了)