春を待つ
江嵜企画代表・Ken
「春を待つ-想-展」(3月3日まで開催)に日本画家、猪熊佳子先生の作品が22名の作家の作品と共に出展されていると知り、「ギャラリー恵風」へ2日午後家族と楽しみにして出かけた。いつものように会場の様子をスケッチした。
実はこの日、家族に是非紹介しておきたかった金地院を最初に訪問、「方丈」を背に、珍しくポカポカ陽気を幸いに、縁側に腰を下ろし、小堀遠州作の枯山水、「鶴亀の庭園」をスケッチした。
猪熊先生の3号の森の絵の左隣に、日本画家の高野純子さんのF6号の「たより」という題の絵の左肩に桜、右下に優しいタッチの土筆が描かれた作品が並んでいた。たまたまこの日、当番で出場されていたことを幸いに、作者と直接話が出来幸いだった。
「猪熊佳子教室の生徒です。難波、高島屋友の会「日本画教室」で、かれこれ10数年教えていただいております。」と挨拶すると「猪熊先生は、私どもの大学の大先輩です」という言葉が真っ先に返って来た。「絵の題名が「たより」とありますが」と、まずは、水を向けた。高野さんは「開花する少し前の桜の花びらの様子描きました。それに頭を出したばかりの土筆を添えて、春の「たより」とつけました。」と答えた。
いろいろお聞きした最後に「猪熊先生は、速いスピードでどんどん描き込んでいかれて、力強い作品に仕上げられる。本当にすごいと思います。私は猪熊先生のようにどうしても早く描けないんです。寝る前まで描いていて、作品が乾くまで待てず、また明日となります。」と言葉を添えた。
話を金地院に戻す。「こんちいん」と読む。金地院は足利義持が1,400年ごろ創建、1600年ごろ僧侶崇伝(1569~1633)が現在の場所に移したとされるが、その後の調査では崇伝自身が建てたという説が正しいようだとヤフーのブログに出ていた。
崇伝は「黒衣の宰相」と当時言われ「寺大名」の異名を持つ。本殿は伏見城から移された。伏見城と言えば秀吉ゆかりの城である。金地院には家康の遺髪と念持仏とを収め創建された東照宮がある。家康は遺骸を久能山に収めた。久能山「東照宮」、その後遺体を移した日光東照宮、京都の金地院東照宮と3つの東照宮の一つであることはほとんど知られていない。拝殿天井には狩野探幽の描いた鳴龍が見える。東照宮の門の向かって左に家康、右に秀吉の像が安置されている。二体の像は外からは見られるが寺の中からは見えない。何故か門前の紹介立て札にも説明がない。
明智光秀が母の菩提のため黄金千枚を寄進、大徳寺に建てたものを明治初年に金地院に移設した明智門がある。戦国時代、相争った秀吉、家康、光秀、武将3人が一堂に会するかのような場を、金地院が図らずも提供しており、誠に興味深い。
金地院には小堀遠州(1579~1647)が作った、枯山水、鶴と亀の庭園がある。庭園前面の砂は宝船を象徴すると同時に海洋を表す。正面に横たわる長方形の石は東照宮のを逍拝石を挟んで右に鶴、左に亀の石が配されている。背景の樹木は幾重にも重なる深山幽谷を表すと拝観受付けで渡されたしおりにあった。
金地院の存在は淀屋研究家の第一人者、新山通江先生のまな弟子、佐藤正人さんから10数年前に紹介され、恥ずかしながら、はじめて知った。いまも多くの観光客が金地院の前を通り過ぎて南禅寺に向けて急ぐ。金地院はJR京都線山科駅下車、京都地下鉄東西線「山科」から2つ目の「蹴上」駅下車徒歩10分で着く。途中インクライン隧道のトンネル「ねじりまんぽ」を潜り抜けると左手ほどなくで金地院である。
あと1ケ月もすれば春爛漫の季節を迎える。金地院の方丈の縁側に腰を下ろし、枯山水を見ながら、喧騒の中のオアシスをしばし体験するのも一興かもしれない。(了)
金地院