『ドラゴンボール改』のフリーザ編も、いよいよ佳境である。スーパーサイヤ人となった孫悟空の前に、このあと確か自分の放った光輪に切り裂かれ、フリーザは敗れ去っていく。
今後、セル編やブウ編もあるのかどうかは知らないが、ピッコロを倒して世界一になったと思ったら宇宙からべジータやフリーザがやって来るし、そのフリーザを倒したと思ったら未来から人造人間セル、その次は異界から魔人ブウである。
異次元まで行き着いたところで、原作の『ドラゴンボール』は終わった。
人生もこれに似ているように思う。一つの壁を越えたらまた別の壁、と。子供の時は子供なりの、青年になれば青年なりの、そして大人になればそれなりの苦労というものが次々とやって来るものだ。よけて生きるのもいいけれど、越えて行くのがいいのだろうと。そしてそれは、生きている限り続くのかも。
何の苦労もない人生というのは、おそらくないだろうと思う。幸不幸は平均すれば、皆だいたい同じとのこと。どんなに有名になっても、いくらお金持ちになっても、痛みを感じる心というのはなくならないものだ。
いや、有名になればなるほど、偉くなればなるほど、大変になるのだろうと思う(大きな収入は、その〈ご苦労さん代〉なのかもしれない)。悟空だって、あんなに強くならなければ、フリーザと闘わずに済んだはずだ。もの凄い強敵に当たるのは、自分が力を付けたからだと言える。さらには、大変な困難にぶつかるのも修行が進んだから、と言う人さえいる。
苦難を乗り越えて逞しくなっていくというのは、何も『ドラゴンボール』に限ったことではなく、『巨人の星』でも『リングにかけろ』でも同じこと。アニメだからしゃちほこ張らないけれども、おそらくそういうことを言いたいのだろうと思う。(昔はこんなこと考えもしなかったが、年とると見方も変わるもんだ。同じ本でも、時間空けて読むと全然違った感じを受けるのと同じ)
ところで、『ドラゴンボールZ』では1話中の絵のタッチは同じだったのだが、編集しなおした『改』は、1話の中でもそれが混在していることがある。それはそれで楽しんではいるが。あと、「レッテッテー」という効果音がなくなっているのは少々物足りないところ。
余談ながら、サイヤ人てのは「野菜」を逆に読んだものだし、べジータは「ベジタブル」から来ているそうだ。(知ってる人は知ってる)
そうそう、牛魔王や閻魔大王、そしてミスター・サタン役の声優・郷里大輔さんがこの1月に亡くなられた。「あわわわわ、トッ、トリックだ!」と僕らを楽しませてくれた。ご冥福を祈ります。