法事やら何やらで、久しぶりに兄弟やら親戚に会う機会が増えている。賑やかだったり静かだったり、当たり前ながら一族でもいろんなのがいるなあ、と感じているところ。
(どちらかと言うと、我が一族はマジメなのが多い)
多かれ少なかれ、人は誰しも奇妙な一面を持っているもの。クレッチマーという学者の説によれば、人間の性格には6つのタイプがあるという。下の左に並べたのがそれで、極端になるとそれぞれ右のような病気になるそうだ。
神経質 ― 神経衰弱
粘着質 ― 癲癇
顕示質 ― ヒステリー
偏執質 ― パラノイア
分裂質 ― 統合失調症
循環質 ― 躁鬱病
(正確に調べたわけではないが、僕の場合、神経質と分裂質が強いように思う)
全くの平均的な人間も、可能性としてはあるだろう。しかしそれはそれで、どこにも偏っていないという意味で通常とは違うため、「異常」と言えないこともない。人格円満という人だって、神経症気味であったり躁鬱気味であったりするのかもしれない。
また、異常者たちの中にポツンといる正常者ってのは、おそらく「異常者」扱いされるに違いない。とすると、何が正常で何が異常なのかってのは、当てる物差しによって異なってくるということになる。
カウンセラーが患者の妄想に付き合わされるうち精神状態おかしくなるというのも、よくありそうな話。レクター博士に対するFBI訓練生、あるいはジョーカーに立ち向かうバットマンも、そう。
ネクラな奴でもお見合い用の紹介状では「堅実な人柄」となるだろうし、チャラチャラした奴なら「明るい方」となってしまう。死んだ人間が良く言われるのも同じ理屈。
(ところでオリエンタルラジオの藤森って、実はものすごく真面目なのかもしれない)
程度の差こそあれどんな人間にもどこか変な所があり、そこだけに焦点を当てれば「変な奴」となってしまう。誰が総理大臣になろうが、人間である限り「変な所」はあるわけで、そこが攻撃の的にはなる。はっきりとした性格/主体のない〈大衆〉にすれば、それは断然有利な戦いであろう。
でもいろんな人がいてこそ人間の多様性、社会の秩序というのがあるのだから、他人がどう思おうがどう言おうが、自分が感じたこと自分が考えたことが〈正解〉なのだろうと思う。おそらく〈神の視点〉からすれば、ね。
(と僕が考えてここに書いているけれども、変てこりんに思う人もいるかもしれない)
…夏のお休み、ほとんど何の役にも立たないこんなことを考えています。