思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

呼びかけとしてのモラル=サルトル 染谷裕太

2005-05-02 | 恋知(哲学)

サルトル哲学のキーワード=『呼びかけとしてのモラル』について、先週、ソクラテス教室の「高校・大学クラス」で授業をしました。
そのときの染谷裕太君(18歳)のまとめを発表します。澤田直さんの「新・サルトル講義」がテキストですが、著者よりも、私よりも分かりよい?まとめです!!(澤田さん御免なさい)
染谷君は、中1の時からの私の教え子で、今年地元の我孫子高校を卒業し、4月からピカピカ!の大学1年生になりました。


呼びかけとしてのモラル 染谷裕太

 ふつう、倫理といえば、何をすればいいのを教えてくれるものだが、それでは命令になってしまう。命令は、常に何かの権威の名-神の名や人間の本性の名などーのもとになされるが、実際には、神もなく、人間の本質も決まっていないのだから、命令とは、皆が望む「普遍的」なものではありえない。重要なのは命令ではなく、「呼びかけ」である。普遍性は存在しなくても、「普遍性」の構築を目指し、「~しよう」と呼びかけることはできる。呼びかけるというのは、多様性を承認することであって、自分と他者との同一性の下に行為を要求するのではない。呼びかけは未来への提案であり、他者に考えを押し付けることなく、関係を築くことである。しかし呼びかけには、相手がそれを断るというリスクが常についてまわる事を忘れてはならない。

贈与としての自由  染谷裕太
 
 絶対的で普遍的な真理など存在しない。「真理」というものは、そのつど私たちが暴き出すものである。真理を暴き出すというのは、常に他者へ向けてであり、それを一人で隠しておくことはできない。なぜなら何かを発見し、それを他に向けて与えるということは、私たちの対他関係に根源的に含まれているからだ。
(すべて原文のままです。)


以上は、サルトル哲学の二つのキーワードについての簡潔なまとめですが、私は、この「呼びかけとしてのモラル」を広くのみならず、狭く?行うことが大切だと思っています。親子、夫婦、師弟など身近なところで実際にやってみること、繰り返し練習することが何より大切!だと思います。身近な人間関係の中での具体的実践です。理屈だけというのは最悪ですから。

2005.5.2 武田康弘



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