自分の存在価値を、政治・社会的信念の維持に求めるのは不幸だと思います。
実存の問題を社会の問題にすりかえると、個人性が社会性へと転位してしまいます。実存次元での信念は、一般性が要求される政治・社会思想とは質が異なるのです。さまざまな観念を抱えもつ心身としての私が生きる意味を、社会問題へ関わる私に収斂させれば、単線的な人生に陥ると同時に、社会問題の解決も遠のいてしまいます。
深い意味充実のエロースは「実存次元」で追求されるものですが、これを「社会次元」に求めれば、ロマン主義に陥り、おぞましい結果を招来してしまいます。ロマン主義の象徴がナチズムであり八紘一宇の天皇制国家主義です。人間の生にとってロマンの追求は何よりも大事なものですが、それは実存次元で行われるもの。実存=個人のロマンを集団化(家族・学校・国家)させれば、醜いもの、危険なものに陥ります。
国家主義者も反・保守主義者も「政治的信念」で生きている人は、実存のエロースが乏しいために「政治」に関わる、と言うより関わらざるをえないのではないでしょうか? そのルサンチマンが固い「主義」を生み出してしまいます。ほんとうは、実存のエロースを豊かにするために社会のルールやシステム、モラルの改変が必要なのですから、その思想とそのための運動も自己の枠を広げ、解放するようなものでなければ意味を持たないはずです。
問題山積なのは当たり前です。人間が複雑・高度な文化を築いてきたのですから、課題もそれ相当に難しくなるわけです。その複雑に絡んで混沌とした世界によき秩序をつくる「技量」を磨くところに面白みがあります。多層な世界を豊かに取り込みつつ、余裕のある善美の世界をつくるのが実存としての人間の力でしょう。
「自由の相互承認」さらに「自由の相互贈与」としての関係を築くことのできる人間の生が、よい社会を生む条件です。その自由を存分に活かして喜び・悦び・歓びの多い豊かな人生を互いに「送り合う」事が人間の生の目的ではないでしょうか。政治・社会の改変とはそのための条件を整えることです。それ以上でもそれ以下でもありません。実存次元と社会次元の相違をわきまえず、混同、または価値を逆転させれば自他を不幸にすると思います。
今日は5月3日、憲法記念日です。市民精神と平和国家宣言を生かし、発展させるための創造的な思索をめぐらしたいですね。自由民権運動が生んだ「五日市憲法草案」のような市民の手になる憲法草案をつくれたら面白いと思います。ブログ上でつくる!とか。どうでしょうね?
2005.5.3(5.4改定) 武田康弘