(以下は、「公共哲学ML」における私の3回のメールをまとめて編集ー改定したものです。)
私は、日本国憲法第一条は、落ち着いてふつうに考えてみれば、ずいぶん無理な規定だと思います。生きている人間を、「日本国民全員を統合するシンボルである」と規定するとは、なんとも釈然としない話しです。天皇条項は現代市民社会の常識とは大きくかけ離れているために、子どもに聞かれても説明のしようがありません。誤魔化すしかないのです。一条は日本国憲法のアキレス腱ですが、憲法を論じる人は皆おかしな「魔法」にかけられているようで「素通り」してしまいます。
私は、一条は『主権は日本国の市民に存する』と簡明な記述に改定するのがよいと考えています。
続けて、『首相は日本国の市民による直接選挙で選ぶ』と規定。
『天皇及びその家族は、歴史―文化的存在であり、国政に関する権能は持たず、国事行為も行わない』ことも明記すべきです。
そうすることで、天皇家の人々に現代社会に見合った新しい活躍の道を開くと共に、その人権を全面的に保証することにもなります。
名字も持たず、日本国籍もなく、憲法の保障する基本的人権も適用されない存在とはいったい何なのでしょうか?やはり現人神!? ある特定個人をこのような「不明な」存在にしてしまう権利は誰にもないはずです。今は21世紀です。天皇家に生まれた人間もふつうの市民としての人権がきちんと保障されなくてはいけません。
現在の象徴天皇規定は、意味不明・非論理的で、皇室の人にとっても皇室外の人にとってもうっとうしく不幸です。
私は小学5年生の時に「政治クラブ」創設を要求し入部し、憲法の意味を探り、40条までは暗記もしましたが、1条の天皇条項と、9条の陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない、という戦力の不保持については、論理を超越した「宗教」的規定でしかないな、と見ていました。宗教の経典ではなく、現実の法がこのような論理矛盾を抱えているのは大変危険です。法の意味・価値が消去されかねません。
もうそろそろ、わが日本人も創造性を取り戻し、自由民権運動時の「五日市憲法草案」(全国各地でさまざまな民衆憲法草案がつくられた)のようなものを市民の手で創ろうではありませんか!
市民精神(「エリート主義vs市民精神」を参照)に基づく社会に変えていこうとする私たちに必要なのは、自民党の憲法改正の真の狙いや、その思想的背景を事実に基づいて明晰に解明すること(靖国神社「遊就館」の驚愕の実態は彼らの歴史・世界観の象徴)と、「民・憲法」のダイナミックな創出を同時進行させることだと思います。大きな特権を持たせると同時に基本的人権を剥奪してしまっている一人の個人を「天皇」と呼び、それを「日本国民統合の象徴」としているようでは、よき健全な市民社会を築けるはずがありません。
意味不明、ごまかしの上に立つ社会では、「なぜ?」という意味論―本質学の追及がない国、小学校から大学院まで深く意味を問うことをせず「事実学」を積み上げるだけ(愚劣な受験勉強はそのシンボル)、したがって「情報」と「ノウハウ」だけの底板のない国、全体非合理-「部分合理性」の国にしかなれません。
「人間を幸福にしないシステム」―エロースの乏しい日本社会は、憲法1条に象徴されるような、本質次元でのごまかしをつづける限り「永遠に不滅」でしょう。構造としての日本国憲法の最大の問題とは、天皇条項なのです。
以上は、特定のイデオロギーにとらわれないで、ふつうに静かに考えればあまりに当然の結論です。よほど何かに偏執している人以外は、だれにでも受け入れられる自然な考えだと思います。明治政府が拵(こしら)えた反・地方、反・伝統の「日本像」(「日本のよき伝統を破壊したのは誰ですか?」を参照)にいつまでも縛られていては損です。現実問題を真に現実的に考えるためには、原理的な視点の確保が必要。一見遅いように思えても、「原理」からの見直しが、現実のよき変革には一番有効です。
また、9条の問題については、自衛隊にしても今消去するわけにはいかないのですから、どのように規定したらよいか?を、戦争放棄の立場から明確にする努力が必要です。政治的信念をもった一部の人ではなく、ふつうの多くの人を納得させる普遍性の強い思想を積極的に提示していきたいものです。
9条を守るという「宗教」になってしまえば、必ず敗北します。現実社会にはよき社会思想(論理)が必要です。政治は「宗教」や「個人的信念」ではありません。肝心なのは、戦争放棄の社会思想をより強く現実化させるための創造的思考です。複雑な国際情勢の中で、戦争放棄の思想が実は最も「現実的」であることを能動的に示していこうではありませんか!
「守る」のではなく、新たに「建築」するのです。ベクトルの向きを逆転させましょう。
2005.5.14 武田康弘