強い一神教=キリスト教の下にあるヨーロッパでは、しばしば普遍性と超越性が並列して語られます。これは哲学と宗教が同じカッコで括られてしまうことですが、私は普遍と超越(絶対)の根本的な相違に無自覚な「思考」がヨーロッパ思想界のアキレス腱になっていると見ています。ギリシャ哲学のキリスト教化は、アリストテレスの哲学をキリスト教が援用したことに始まりますが、真に世界的な普遍性をもつ思考はこれを乗り越えた地平からしか始まらないのです。キリスト教と哲学を截然と分離することは必須の課題です。
以下に以前わたしが小中学生向けに書いた「3つの正しさ」を載せます。
1. 絶対の正しさ
誰がなんと言おうとぼくの考えはゼッタイ正しいんだ。とか、偉い人(又は神様)が言ったことだからゼッタイなんだ。・・
2. 一般的な正しさ
だいたいこんなところが正解だよ。みんなもそう言ってるし。とか千人からアンケートをとった結果このようになリました。・・
3.普遍的な正しさ
なるほど、そうだなあ。と深く納得する。腑におちる。
哲学で言う正しさとは、この3.です。哲学では「絶対の正しさ」というものは認めませんし、「一般的な正しさ」では満足しません。
「普遍的な正しさ」をつくるためには、疑い・試し・確かめること。自分の頭でよ一く考えたことを、他のひとに示すこと。これを何度もくリかえしてゆく必要があります。だんだんと多くの人が深くナットクする「考え」にきたえてゆく営みを、「哲学する」と言うのです。
また、科学的な正しさとは、この「普遍的な正しさ」の中の一部分です。(1998年4月8日)
絶対的=超越的な「正しさ」を求める心を生み出す生活の仕方を改めていくことが個人の大きく柔らかなエロースをひろげ、社会から抑圧や暴力をなくしていく鍵です。
何をどのように考えたらよいか?を探り、なるほど、そうだな、と深く納得が得られる考えを自他の中に育てつつ生きることが広い意味での哲学的な生ですが、これを阻害してしまうのが、超越的・絶対的「正しさ」です。
ほんとうによく考えている一部の宗教者は、自身が信じる宗教の深層次元での相対性を自覚していると思います。その自覚がない信仰や宗教生活は自他をけっして幸福にしないはずです。「絶対」とは「物語」に過ぎないことの深い自覚がないと宗教はとんでもない悪にしかなりません。
また「一般」性の世界だけでは、人間は生きる意味を見出せないためにひどい不全感を抱えてしまいます。「ヨーロッパ中心主義」への反動から、それを支える「絶対」を消去しようとして「一般」に逃げ、「普遍性」まで投げ捨てると、相対主義に転落してやはりエロースは消去されてしまいます。
21世紀からは哲学(恋知)の時代に! が私の願いです。
2005.5.23 武田康弘