思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

靖国「神社」問題を考えるーシリーズ???

2005-05-29 | 社会思想

3つのブログを一つにまとめました。 ご意見。ご感想をお気軽にどうぞ。


?ご存知ですか? 靖国「神社」の主張を。

以下の靖国神社の主張をみなさんはどう思われますか?

靖国神社・遊就館売店の前列で平積みで売られているパンフレットー「靖国神社を考える」からの抜粋です。
(靖国神社の理論的重鎮、東京大学名誉教授・小堀桂一郎の談)

「靖国神社の本殿はあくまで、当時の官軍、つまり政府側のために命を落とした人たちをおまつりするお社である、という考えで出発したのでして、それは非常に意味のあることだと思うのです。 そこには「忠義」という徳が国家経営の大本として捉えられているという日本特有の事情があるのです。 「私」というものを「公」のために捧げて、ついには命までも捧げて「公」を守るという精神、これが「忠」の意味です。

この「忠」という精神こそが、・・日本を立派に近代国家たらしめた精神的エネルギー、その原動力に当たるものだろうと思います。ですから・・命までも捧げて「公」を守る、この精神を大切にするということは少しも見当違いではない。その意味で、靖国神社の御祭神は、国家的な立場から考えますと、やはり天皇のために忠義を尽くして斃(たお)れた人々の霊であるということでよいと思います。

靖国神社の場合は、・・王政復古、「神武創業の昔に還る」という明治維新の精神に基づいて、お社を建立しようと考えた点に特徴があるといってよいかと思います。

あの社は天皇陛下も御親拝になるきわめて尊いお社である。微々たる庶民的な存在にすぎない自分が命を捨てて国の為に戦ったということだけで天皇陛下までお参りに来て下さる。つまり、非常な励みになったわけです。
国の為に一命を捧げるということが道徳的意味をもつのは万国共通です。言ってみれば、人間にとっての普遍的な道徳の一項目なのです。

実は総理大臣が何に遠慮して、参拝に二の足を踏んでいるのか不思議でならないんです。
中共が総理大臣の参拝に文句を言ってくるのは、何も彼の国民感情が傷つけられたなどという話ではまったくない。あの国の民衆の大部分は靖国神社の存在すら知りません。・・外に問題を設けて反対勢力の目をそちらに向けさせようという国内政治の力学が働いている程度のことであって、まともに相手にすべきことではないんですね。

だから私はこの問題でも総理が断固として参拝されるのがよいと思うんです。そうすると直ちに北京から文句を言ってくるでしょうが、適当にあしらうなり、知らぬ顔を決め込むなり、いくらでも対処の仕方がある。
総理が北京からの苦情を無視して何度でも繰り返し参拝すれば、そのうち向こうも諦めて黙るに決まっている。
総理の参拝が実現し、やがて天皇陛下の行幸もできたということになると、私は国民のモラルに非常によい影響を与えることができると思うのです。」ー1999年8月・小堀桂一郎(東京大学名誉教授) 抜粋は、わたし武田です。


?靖国問題ーふつうに真っ直ぐに考えれば答えは実に簡明です。

なぜ、明治政府が人為的に作った「天皇教=国家神道」を否定した現在でも、新興の一宗教法人にしか過ぎない靖国「神社」に強制的に戦死者の慰霊を祭り続けるのか?
誰も「まとも」には答えられない問いです。

ふつうの多くの日本人は、「日本の戦争はすべて祖国防衛とアジア解放の正義の戦争、ゆえに戦犯などいない、戦勝国の勝手な裁判など認めない」という靖国神社の主張(この下のブログをご覧下さい)を認めていません。自民党の右派勢力に引きずられる小泉首相の「幼い信念」と心中したくはありません。

この問題の解決は、すべての宗教に等しく開かれた無=多宗教の「公共墓苑」を創設すること、それ以外にはありません。近代市民社会の原則を踏まえれば、これは議論の余地のないことなのです。

今年はもう戦後60年、政府は一刻も早く「公共墓苑」創設に着手しなければいけません。

『靖国はまず何より国内問題です』 および 『水の国=日本、よき伝統を破壊したのは誰ですか?』をぜひご覧下さい。

2005.5.27 武田


?政治は市民益のためー個人的信条は迷惑です。

もう誰の目にも明らかだと思いますが、構造としての日本政治最大の問題は、「靖国思想」とどう向き合うかです。本来はとっくに清算を済ませていなければならない問題ですが、明治政府のつくった「天皇教=国家神道」の亡霊が自民党内で息を吹き返し、日本の政治を薄気味の悪いものにしています。

「戦犯などいない、戦勝国が決めたことだ」(森岡政務官)と考える超保守主義者に親和的な政治家に対しては、「国家神道」の思想をはっきりと否定して「市民精神」に立脚することが現代政治の「はじめの一歩」だということを明白に示さなければなりません。

現代の民主政治にイデオロギーを持ち込まれては皆が迷惑します。
政治は個人的信念ではなく、ふつうの人々の利益の為に行われるのです。宗教は宗教、政治は政治です。政治家は政治という仕事をして生活費を得ているのであり、個人的信念、宗教、趣味等を仕事の場に持ち込まれては困ります。小泉さん、しっかりわきまえて下さい。

「天皇主義」・「国家主義」も「共産主義」も共に市民の迷惑です。「市民の市民による市民のための政府」でなければいけません。民主制の原理・原則に則ってまともな政治をする義務が政治家にはあるのです。公共善を目がけて納税者の意志を体現するのが仕事なのですから。

「皇族の人権と市民精神の涵養」もぜひ見て下さい。

2005.5.28 武田康弘


 



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