わたしは保守派オンパレードの世の流れに「公共的怒り」をもつ者です。明治政府が人為的につくった新宗教=「国家神道」の靖国神社が市民権を持つようなら民主制は終焉するでしょう。もう一度山県有朋が中心となって作り上げた「近代天皇制」を肯定するなら日本は完全にアウトだと思いますが、自民党の戦略は着々と成果をあげています。
国家主義的な強制がまかり通る薄気味悪い世の中を、「実存」を原理とするエロース豊かな社会に変えていかなければならないと考えます。
こういう愚かな世の中=低次元のエロースしかない社会にしてしまった原因のひとつは、改革派と言われる左翼の思想=生き方にあると思います。
その時々の社会の「状況」をどう見るか・考えるか?は、
「学問や勉強」ではないのですが、「理論」が偉いと思ってきた従来の日本の左翼は、それを「学問」にしてしまったためにひどい権威主義に陥りました。権威にすがれば、個々人から立ち昇るエネルギーが消去されるのは当然の話です。象徴的に言えば、体制派以上に「東大病」に侵され、体制派以上に「事実学」の権威に縛られてしまいました。(左翼系といわれる「朝日」の序列―権威主義!)
《存在》そのもののよさを知り、そこにつくのではなく、知識・履歴・財産・の《所有》、左翼の場合はとりわけ知識の所有につく傾向があったために、人間の存在としての力=「人間力」を豊穣化させることに失敗したのです。それが、のびのび自由に「状況」に関わり、発言する力を弱めたのです。イデオロギー=理論に縛られたギクシャクした心身―紋切り型の頭にはまったく魅力がありません。
「理論」を優先し、権威ある「人物」に頼ろうとする思考・心理を元から断つ新たな考え方=生き方が必要だと考えて、わたしは1976年から私塾を開いて自他の改革に取り組んできました。「実存愛」の哲学を創り実践してきましたが、「病気」の根はおそろしく深いです。
「状況」への発言は精密さには欠けても、《自分のことば》ではっきりと言うことが何よりも大切で、そういう行為が「エネルギー」を生むのだと思っています。「理論」ではなく、生きたいまの考えが尊重されないと思考は死んだ無価値なものになってしまいます。主義や団体の発言ではなく、「わたし」の発言を主軸に据えないと改革派は完全に敗北してしまうでしょう。
自分自身の心身や思考や行動を、柔らかくしなやかで自由な愛=「実存愛」によるものに変えていきたいな、というのが私の思いです。
新しい生にむけて、“ここがロドスだ。ここで跳べ。”といきたいものです。
2005.5.17 武田康弘