シリーズ?
???と合わせて見て下さい。
生きる意味・よろこびを生み出すのが「なぜ?」の意味論
自分の頭を悩ませて、分かった!という歓び。こうでもない、ああでもない、と試行錯誤して「答」を見つけ出した時の喜び。わたしの言う意味の探求=意味として知るとはそういう事態を指しています。人間が生きることー自分の生を内的に価値あるものとすることの条件が、「なぜ?」という意味論=哲学の探求です。
即席メンをつくるように問題と解答を直結させて「パターン」を叩き込む手法―底板(意味思考)のない日本の受験主義は、人間として生きるよろこびを元から消去してしまいます。意味の追求をやめて効率を優先すると、人生は「終わって」しまうのです。内的に人間として生きることができず、外的な価値をカンフル注射されながら生きるほかはない不幸な存在に陥ります。
ハウツー、ノウハウ、その場の現実対応だけがあるという人間、 理念を育てることができず、内的には生きる意味を持てない人間、 形式的に存在するだけの「人間の抜け殻」では悲しいです。これは子どもたちの話ではなく、とりわけ「エリート」職業につく日本の大人に多く見られる問題です。底なしの生の地獄―年間3万数千人の自殺者がでる「人間を幸福にしない思考とシステム」をつくっているのは、意味論=哲学軽視の即物主義、人間の内的価値が分からない外面人間の集合意識ではないでしょうか。
「なぜ?」「何のため?」「何をめがけて?」がなく「やり方」だけがある人は、既成システムの奴隷であり主体性を持ちません。その時々の刺激で左右に揺れ動くだけの存在です。意味論をパスした事実学的な頭が、人生から生きる喜び・悦び・歓びを奪っています。システム化されたカタチだけの勉学・意味論抜きの事実学の緻密化―これが現代日本の「知」の実態です。本来、頭と心は一つです。「なぜ?」の意味論が人間を人間にしていくのです。わたしは時代に抗して、意味論としての勉学を身につけた者同士の「相互主体性」の形成、心身の全体で生きる「実存愛」豊かな子どもと大人を育てる努力を続けていこうと思います。
(つづく)
2005.5.18(19日改定) 武田康弘