わたしは、a「理論・理念主義」とb「現象学主義」の双方を超えていかなければ、健康な真に有意義な思想は生み出せないと考えています。
自分のはじめの直観を強固なものとしていくa理論武装としての思想は、思想ではなく宗教です。ただいたずらに理論の山を築いて何かができたと錯覚するなら、それはコッケイでしかありません。理論は必要最低限にしないと、頭は死んでしまうのです。
また、さまざまな言葉の意味本質を問う、というb思考の基盤としての現象学も、今ある人々の意識と言葉の使用法に乗って「本質」を言い当てることを自己目的にすれば、高等遊戯にしかなりません。社会や身の回りの現実変革にはソッポを向き、まるで「受動性」が正しいと言わんばかりのオタク的な新・宗教に陥ります。
わたしは、受動性を基礎として持ちつつ、能動的な思考と人生を創ることがエロースの生だと思います。
ありのままを知り、見るためには受動的な心が必要です。そっくりそのまま受け入れるという心がないと、頭は粘ってきれいに回転しません。特定の意識―想念に呪縛され、イデオロギーが先立つ死んだ頭になってしまうのです。この自分の頭の固着や主義、つまらぬ自我主義をたえず「白紙」に戻していく作業=日々の「小・回心」は、哲学の実践そのものです。これには「受け入れる」心が何より必要です。事象そのものを真っ直ぐに見るための「受動性」を、哲学の言葉では「現象学的」と呼びます。
しかし、「寄生虫」や「ドレイ」として生きるのではなく、自分から始まる意義ある人生を歩もうとすると、自分で積極的に(受身ではなく)決定することが必要です。批判し、創造し、建築すること必要です。「おまかせ」ではダメで、ここが問題だ、ここを直そう、今までの考え方や習慣やシステムを変え、新たなよりよいものを創り上げよう、という能動的な考えを生み出しつつ生きることが必要です。落ち着いた強い行動としっかりとした考えをつくる努力をしなければ、能動的な人生は歩めません。自己のフィードルに自閉する人間には、公民=市民=社会人としての自由と責任はやってきません。言い当てゲーム=高等遊戯に明け暮れることが人生最大のエロースになっている人は、麻薬患者と同じです。
b「現象学」は思考の基盤(原理)として大変重要なものですし、
また、aしっかりとした「理念」をつくる理論的営みは、よき能動的な人生を歩むためには、欠くことのできないものです。
しかし、一歩間違うと、ただちに「現象学主義」に、また「理念・理論主義」に陥ってしまいます。その双方を越えていくための思考の原理をわたしは「民知」という言葉にしてみたのです。
武田康弘
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以下は、おまけです。
上記の「理論主義と現象学主義」に対する白樺ML内のメールです。
あべです。
この生き方、イイですね。素直な子供の心で受けとめて、現実問題を賢く解決する大人という感じがします。(一言でいおうとして次元の違いが曖昧になってる?。意味合いをおかしくしてしまったらごめんなさいです。)
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「素直な子供の心で受けとめて、現実問題を賢く解決する大人という感じがします。」(阿部)
うん、なかなかいい解釈ですね。
ウソ、タテマエ、ゴマカシ、その場しのぎ、というインチキは、必ず人間を不幸にすると思います。
「子どもの心で素直に受け止めて」、次に、
よし、こうするぞ!という決断ー大人の自由と責任で行為するというわけです。
タケセン(武田)。