「民知」のことばの意味について少し補足説明します。
なお本日、「民知宣言ー公共哲学編者・金泰昌氏来訪・会談」を「白樺教育館」のホームページに載せましたので、ぜひご覧下さい。クリックすれば見られます。
この言葉=概念は、フッサールの『ヨーロッパ諸学問の危機と先験的現象学』における中心テーマである「生活世界」から来ています。
「学」としての哲学である「認識論」出自のこの言葉・概念を、経験的な次元の言葉に移し変えたのが、「民知」です。
近代社会成立以後、「客観的理念的世界」と「生活世界」は、前者が「学的客観性」の世界であり、後者は「主観的相対性」の世界に過ぎないと思われてきました。
しかし、実は、学的世界に「客観性」や厳密性を与えているのは、生活世界の方なのです。
フッサールの書の題名=「厳密な学としての哲学」の「厳密」という概念は、「客観的真理」という意味ではなく、「根源的な明証性」のことですが、この明証性の領域とは、生活世界のことであり、それ以外の場所にものごとの確かめの根拠はないことを、原理的次元で明らかにしたのがフッサールの業績。私はそのように見ています。
このこと=「生活世界」の知は、「学的世界」の知の基盤でありそれを包括するものだ、という明晰な自覚がいま強く求められている、と私は思っています。実は、その射程はすごく長くて、珍しくフッサールが豪語(笑)するように、まさに「あらゆる宗教的回心にもまして人類の実存的回心をひき起こす」もの、なのです。
民知とは、人類が未だに呪縛され続けている強い「一神教」的観念・生活(日本人の場合は一極集中のヒステリー)から解放され、真に内的に生きる=「超越原理」をつくらずに深い自由を生きる、ことを可能にする思想の原理です。この原理は、薄い受動性の観念ではなく、豊かな肉体を伴う能動性をもちます。
「民知としての知」=「恋知学としての哲学」とともに生きることは、個人の不幸と人類の悲惨を一番深い地点で救い、エロースの生をもたらすことになる。そう私は確信しているのです。
7月11日 武田康弘