一人の個人としてのエロースを求めることができず、そこから逃げて何かしらの「集団」や「仲間」の中に埋没する。そこでの役割―仕事に忙殺されることを選ぶ。「いやだ」と言いつつ「忙しく」している以外に、生きる術を持たない。忙しい、大変だ、という生き方が「唯一」の生き方になっている。
時間ができてもそれを実存のエロース・悦びの創造には使わず、再び既成価値の下でバタバタとして「自分から逃げる」パターンに戻してしまう。「そうするしかないのだ」と自他に言い聞かせつつ。
内的に愉しむ・悦ぶ=個人の深い意味充実のエロースを知らず、いつも世間がつくった外の価値に合わせて生きようとアクセクする。自分―個人は存在せず、世間の価値だけが存在する。右も左も依然として精神の深層は「天皇陛下・万歳!」?の全体主義から抜けられない。おおもとから考える心と頭を育むことをせず、結局は、情報知と制度知の紋切り型に支配されることを選んでしまう。
自己意識(「自我」ではなく「意識の働き」それ自体のこと)が弱いのでたえず「世間」の価値で生きるしかない。自分自身から発するエロースがないので「寄生虫」にしかなれない。「いろいろ考えた」といっても最後は「形式、世間体、外面」に縛られて何もできず、空しく消えていく人生。これでは一生、悦び・エロースはやってこない。底なしの不幸。でもそれを選んでいるのは、私たち自身。
わが日本人よ、「一歩」を踏み出そうではないか! ビクビク小さくなっていても何の「得」も「徳」もえられはしない。たいした「実害」もないのに虚像に怯えているのはただのバカだ。わが同胞に最も必要なのは少しばかりの「勇気」である、とつくづく私は思う。自分自身に素直になれば、内外の「革命」はやってくるのに。
2005.7.1 武田康弘