思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

完・「東大病」ー『ソクラテスの弁明』ー死刑を宣告された「発見」

2005-07-03 | 教育
「東大病」の4回目、一応の完です。

子どもの時から始まる「知のパターンを身体化する訓練」の勝者が受験偏差値上位の「難関校」に進むというのが、わが国(アジアのいくつかの国にも共通しますが)の教育です。

「なぜ?」「どうして?」と意味を追求し、自分の頭を悩ませ・考えるほんとうの勉強をしていたら「東大」へは入れません(もちろん例外者もいますが)。もっと効率よくお上手に勉強し、「正解」を疑わず、スマートにパターンを身につけ、概念中心主義に徹し、けっして実存としては生きず、既成価値・路線に従い、小学生から紋切り型(思考力もトンチ力?も定式化する訓練)の頭をつくる進学教室に通い続けなければ難関校へは入れないのです。

ここから哲学的頭脳や創造的頭脳が生まれたら「奇跡」です。ただの「物知り」の人間や、公式化された「理論」をつくる人間ならいくらでも輩出できるでしょうが。「事実学」を勤勉に積み上げればいいだけですから。誰かが創造した思想に乗っかってそれを上手に使う人間、既存の理論を緻密化するだけの頭脳を本来「優秀」とは呼びません。暗記力に優れたパッチワークの名手というだけの話です。

私は若くして独自の「私塾」を開き、多くの劣等性や優等生に心と頭と体―五感の全てをもって深く関わってきた体験から断言します。日本の「知」の捉え方は貧しく狭く、致命的な偏りがあることを。

私自身、24才の時から一切の遁辞が許されない状況の中で、生身の子どもたちに日々教わりつつ、自分のもつ「概念主義的歪み」を矯正する作業に明け暮れてきました。思想を身体化するという営みは、「学」を積み上げてきた人間にとっては至難の業です。だから私には、他者を啓蒙するという考えがありません。対話をしながらいつでも一緒に考えるのみです。

「ソクラテスの弁明」の次の箇所は、紛う方なき真実だと思います。

「わたしは、世に高名な人と問答をしてきたが、彼らは知恵があると自分では思っているが、調べてみると思慮の点では九分九厘まで最も多く欠けている。これに反してつまらない身分の人の方が、その点、むしろ立派に思えたのです。」

私のいう「東大病」とは東大生関係者のことを言っているのではなく、このことが分からない人、「学知」が偉いと妄想する「エリート」意識の持ち主をさしているのです。

2005.7.2 武田康弘




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする