思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

メールー「東大病と公務員」 根源的不幸を断つのが「民知」=「恋知学」

2005-07-13 | メール・往復書簡

以下は、法案作成を仕事とする国家公務員の方からのメールと、それに対する私の返信メールです。

「東大病と公務員」

武田様

哲学の話は私にはとても難しいのですが、 「東大病」の話は非常に分かりやすく、今まで漠然と何か変だなと感じていたことをズバリ言い当てられたようで、深く納得しているところです。自分の経験から、東大病は国家公務員に最も強く感染し
ているのではないか、と思います。国家公務員試験が戦前から今日まで、一貫し
て東大法学部を中心とする競争試験になっているからです。とにかく高い地位に
就きたい、地位の高い人にほめられたいという単純かつ強力な権力志向があり、
無意識のうちに他人と競争することそれ自体が人生の主目的になって、仕事が忙
しくない者は脱落者であるとの脅迫観念に支配されている。これは特にキャリア
組の公務員に特徴的ですが、職員全般にも言えるもので、要するに程度問題だと
思います。何ともセコイ情けない話ですが、これが近代天皇制につながっている
とは、まったく驚きです。

A様。

「とにかく高い地位に就きたい、地位の高い人にほめられたいという単純かつ強力な権力志向があり、無意識のうちに他人と競争することそれ自体が人生の主目的になって、仕事が忙しくない者は脱落者であるとの脅迫観念に支配されている。」(A)

中身・内容として生きるー深い意味充実の生とは対極の外面(そとづら)人間として生きるように洗脳された人々=カタチ=形式=様式が支配する社会は、個人として生きるエロースをおおもとから消してしまいますね。

一元的な価値信奉のヒステリー=単純序列宗教=「天皇教」という形式宗教の中で「ドレイ的な眠り」を強迫されて生きる他はない。この「フィールド内競争人間」として飼育されている日本人の生きる術は、ただ「所属部族」の長に評価されることだけというわけですね。

わたしは、この「根源的不幸」の生を元から断つのが「民知として知」=「恋知学としての哲学」の実践だと考えています。

理性の根源を「礼節」という美名=強迫で絶ってしまう日本社会における「公共」とは、天皇制の序列社会内秩序に「合わせる」ことでしかありません。この日本的洗脳・支配から免れている人は滅多にいません。この点では右翼も左翼も同じです。みな序列と権威の中に「昇天」してしまう。真に中身・内容で生きる人=よき理性を発揮して生きる人は残念ながら極小です。

潜在的には多くの人が素晴らしい理性をもっていますが、これが天皇制的心性による序列宗教=「ザ・日本システム」によって押さえ込まれているわけです。

真の人間的な「礼節」の原理とは、自他に深いよろこびをもたらす言動=皆のエロースを広げる言動のことです。それができる人が最大の「礼節」者。けれども「序列・形式宗教」は、人の心を奥部くまで縛り、自由=エロースを消去してしまいます。

繰り返しますが、この問題を解決するのが「民知としての知」=「恋知学としての哲学」の役目だと私は思っています。人間的な悦び・エロース・自由を生み出すもの=実存の源泉が、ソクラテス出自のほんらいの哲学です。私は、自・他を意味充実の生=中身・内容で生きる魅力ある人間に変えていく仕事(=天職?)にますます精を出そうと思います。

お返事が長くなりました。メール、どうもありがとうございました。感謝!


7月12日 武田康弘




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