思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

日本に求められているのは、天皇制的精神風土から「民知―恋知」へのコペルニクス的転換を果たすこと

2005-11-01 | 恋知(哲学)

武田康弘です。 (公共哲学MLメール)

昨日(10月30日)の「スピリチュアリティと公共性」のシンポ、スタッフの方ご苦労様でした。さん、お久しぶりでした。メールを受けて書きます。

「(天皇、皇后に)二人並んで目の前で手を振られてしまい、本当にリアクションに困りました。 まぁ、あまり悪意のない夫婦という印象でしたが。 今や天皇制は豆腐のようなふにゃふにゃしたものになり、その分、手ごわいものになっているのかもしれません。」(

昔からそうです。個人としての天皇という人間の問題ではなく、天皇制という制度ならざる制度=天皇制的心性・精神風土が大問題なのですね。

まさに「日本書紀」の叙述仕方に象徴されるように、相矛盾し対立するいろいろな見解を並列して載せ(一見民主的)、しかし、結論は決まっていて動かせないようにしてある。内容ではなく、序列という形式による支配を本質とするのが、「形式・様式」を暗々裏に強要する天皇制という思想ならざる思想です。

天皇家は、スピリチュアリティ(霊性)の本家ですからね。スピリチュアリティによって社会の全成員を、縛るともなく縛るのです。これは、多くの日本人に共通する心性であり、右翼も左翼も、日本主義者も欧米に憧れる「西洋かぶれ」も、インテリも非・インテリもその点はみな変わりません。

ここからの脱出は容易ではありませんが、その課題に真に答えようとするのが、私の提唱する民知ー恋知という思想です。 (?民知宣言 ?民知ー恋知と公共哲学
従来の「個々の思想内容の検討」に留まらず、「知の枠組みそのもの」を変えていこうという試みで、それは民主制という政治制度の変革を「知」の次元において遂行しようという大胆な(実は一番ふつうの)試みです。両者はほんとうは一体のもの。

それは、生き方=考え方=生活仕方=話し方=物事の進め方・・・・・の全ての領域を、生き生きとしたもの、臨機応変・当意即妙ー自在でダイナミックなものにしてゆこうという試みです。楽しさと悦びの世界を生み出す生活世界(学的世界もその一部として含まれる)の革命です。

曖昧模糊とした「霊性」ではなく、あらゆる障壁を障壁としない囚われの少ない心が生み出す健康な霊性=霊性ならざる霊性こそがほんものです。人間が真に心身全体で生きる=のびのびと自由闊達に、自己の存在を深く肯定して生きられる思想をわがものとする人生、あらゆる種類の抑圧を笑って越えてゆく深く逞しい精神が、「霊性」です。

天皇制のつくる不分明で特権的な霊性を、飄々(ひょうひょう)とかつ断固として越えていくのが民知=恋知なのです。それに反して「事実学」の並列で、本質や意味を深める「意味論」を避けるという反哲学(恋知)の省エネの頭の使い方は、天皇制的な様式主義でしかありません。

(天皇や皇族の個人としての人間性のよさと、天皇制という制度と心性が生み出す困った問題とは分離して考えることが必要です。)

武田康弘



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