「受動性」に支配されると、
人間のすることは、ひとつしかなくなります。
なんでしょう?
それは、「消費」することです。
したがってお金の価値が絶対になります。
消費としての勉強しかない、
すると、知とは、受験知のことでしかなくなります。
自分の頭で、体で、全身で生きることー創意、創造、生み出す、つくりあげる、考えだす、工夫、知恵、、、、という能動的な態度・かまえがなくなります。心身の内側から沸きあがるエロースは消えて、人間の生きる意味は希薄になります。
現状追認という受動性か、過去の価値に支配される死んだ思想という受動性か、どちらにせよ、脆弱な精神は「受動性」しか生みません。その想念に縛られて、「その場主義」か、その反動の「権威主義」のどちらかに陥るのです。右も左もなんら変わりません。
ここからの脱出には、「民知」という発想とその実践=ほんらいの哲学(恋知)するという営みが必要です。比ゆ的に言えば、「命懸けの飛躍」が必要!
自分の頭は、自分の心は、自分の体はどこに行ったのでしょう?
日本社会が「受動性」に支配されてから、もう30年近くたちます。
いまの若者はみな「受動性」しか知らないわけです。
そういう現状を打ち破るはずの哲学(恋知)も、完全に専門知に陥り、いまの日本には、受動性の哲学しか存在しません。・・・・・・・
「民知―恋知と公共哲学」をもう一度よく読んでみてください。
以上は、昨日の大学クラス(白樺教育観―ソクラテス教室)の授業、そのごく一部の再現=紹介です。どう思われますか?
=この下の昨日と一昨日のブログ記事も授業で取り上げました。見て下さい=
武田康弘