思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

なぜ、「和」の精神が「同」の強要になってしまうのか?「和」問答の続きです(成毛・武田・山脇)

2005-11-25 | メール・往復書簡

山脇直司さんが提起された「和」をめぐる対話(11月17日のブログ)の続きです。
成毛君からの質問と私の答えを以下に載せます。
(26日追記:山脇さんのコメント)


2005年11月22日
23時51分
ナルケッケー成毛孝行

ここでいう「和」はどういう意味なんですか?
「和」っていい意味だと思っていたのですが。
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2005年11月23日
14時22分
タケセンー武田康弘

直接に「幸福」実現を果たそうというのは無理です。そうではなく、幸せを感じて生きることができるには、どういう考え方・生活仕方をすればよいか?は追求できますね。
これと同じで、
直接に「和」を目的にして、その実現を果たそうとしても無理です。強引に和を作り出そうとすれば、都合の悪いものを差別・排除することにしかなりません。
「和」はもちろんよいことなのですが、それを可能にするためには、実はとてもおおきな「対人関係における課題」を解決していかなければなりません。その認識が甘いと、逆におぞましい結果を招来する、というわけです。
一例を挙げれば、「皇族を敬愛すべし、それによって日本人の和がつくれる」、というような思考―思想は、皇族を敬愛しない人間を「非国民」として排除するという結果をもたらしますね。
あらかじめの「和」の強要は、最悪の思想になってしまうということです。
「差異」を尊重し、よろこぶような思考ー文化でなければ、ほんとうの意味での「和」は生まれないというわけです。
違いは生産的!違いは面白い!違いを愛そう!という考えを実践すると、その結果として「和」がもたらされる、タケセンはそう考えています。
ぶつかり・軋轢((あつれき)を恐れる脆弱(ぜいじゃく)な心と思想では、「和」を生み出すことはできません。「同」の強要、したがって「差別」と「排除」しか招来しないのです。

追記:
とても大事なことを言い忘れました。
この「差異」=「違い」を生かすためには、あることが絶対条件として前提されなければならないのです。
それは、学歴・職業・肩書・性別・家柄などによる「上下意識」を消去する努力です。上下意識があると、違いは、生産的どころか「差別」しか生みません。これは原理です。
このような序列主義・権威主義・様式主義があるところには、「和」は生じません。したがって聖徳太子の言った「和」とは、和ではなく同でしかないのです。
「和・即・同」という貧しい頭脳=精神を越えなくては、よき美しき人間の想念が羽ばたくことはありません。
「差別」のあるところには、その本質において、上からの統一・支配と非支配の関係しか生じないのです。そうなれば、ドレイ根性で従うか、非・妥協的に闘う以外に選択肢がありません。
「根源的不幸」を生み出すもの、それは上下意識にあるのです。権威主義・序列主義・様式主義があるところ、永遠に「和」は生じません。あるのは個人のエロースを奪う「同」だけなのです。これでは民主制社会は成立しませんね。
この原理をお互い「肝に銘じなければ」と思います。

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最初に問題提起した山脇直司です。
武田さんが強調するように、あらかじめ強要された「和」は、「和して同ぜず」という社会観と真っ向からぶつかる「同」の論理です。和=WAはあくまでも、harmony in diversity や peace based upon reconciliation という意味で用いられなければ、諸文明に通底するtransversal な価値とは成り得ません。
ちなみに、中曽根元首相が憲法の前文改訂で持ち込もうとして頓挫した「我が国固有の伝統としての和」というイデオロギーは、そうしたtransversal なWAの再理解と相容れない「WAの特殊日本化=矮小化」に他なりません。中曽根康弘氏が「哲学の必要性」を説教するときに私が苛立つ一番の要因は、彼の極めて特殊な世界観を普遍的なものと勘違いする「公共精神の乏しさ」です。
山脇直司

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コメント
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