思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

活字・文字言語と二次元的な頭 (思想の怖い話)

2005-11-04 | 恋知(哲学)

公共哲学MLへの一週間前(10月29日)のメール公開です。
(なお、山脇さんは「公共哲学とは何か」(ちくま新書)の著者で東大大学院教授です。私との思想的なやり取りは、目次をクリックし、メールの項を出して番号を再びクリックすれば見られます。「三者会談」の模様はクリックで出ます。


「・・・なお、社会の原理とは、「経験的事実」とは次元を異にする「理念的構築物」です。この両者の立体構造が分からない平面的な頭脳は、自民党議員のみならず、おおくの日本の学者にも共通する欠陥ですが、この二次元頭(「東大病」)を克服しないと、日本人は永遠に不幸です。民知(恋知)という全体知=立体的に事象の意味を知る頭を育てる努力が必要です。 「民知―恋知と公共哲学」(10月号の「公共的良識人」紙巻頭論文―武田著)をぜひご覧下さい。」(武田)


武田様

明日お会い出来るのを楽しみにしています。
それで、下記の記事の中で、あえて一つだけ批判するならば、理念的構造が理解できないことを「東大病」ということばと結びつけるのは、少しピントはずれで、インパクトが弱いと思います。というのも、戦後の東大総長であった南原繁ほど「理念的構築物」を強調した政治哲学を唱えた人物はいなかったと思うからです。彼は明らかにプラトン的・フィヒテ的なクリスチャンでした。
そのシンポが下記のように来月下旬に開かれますし、http://homepage2.nifty.com/public-philosophy/nanbara-sympo2.htm 南原の弟子達、丸山真男、福田歓一、加藤節らは、みな社会契約論者で、「理念的構築物」の意義を強調しています。したがって、武田さんの主張とほぼ同じと言ってよいでしょう。ですから、以下のような批判をする時には、東大病ではなくて、「受験病」「有名校病」「エリート官僚病」と言う方が、より説得力を持つのではないでしょうか?
山脇直司

――――――――――――――――――――――――――――――――――――

山脇様。

ちょっと誤解を生んでしまったようですが、「この二次元頭(「東大病」)を克服しないと、日本人は永遠に不幸です。」(武田) と書いたように、「東大病」は、平面(二次元)的な思考仕方、の方にかかっています。

「理念主義」も「経験主義」も共に二次元的思考で、ほんとうは、「理念」と「現実」は立体イメージとして提示・説明されなくてはいけない、というのが武田の思想です。南原さんや丸山さんがどの程度このことに自覚的であったか否かは、いまは問いません。
ただし、少なくとも丸山真男さんは、哲学的には私の言う「言語中心主義」」の枠内に留まっていたことは間違いないでしょう。ただ、このことと「東大病」とは、直接関係はありません。わたしが言う「東大病」とは、山脇さんの言う通り「受験病」(受験知に価値を見る偏執狂)で、現実に存在する東京大学の関係者を指すことばではありません。

本題に戻りますが、「平面的思考」は、文字言語に依拠する人間にはなかなか避けがたいことです。したがってそれに依拠する度合いが強いほど、どうしてもそこに陥りがちです。まして、緻密・正確・矛盾なく、と構えるほどどんどん「平面」になっていきます。ここからの脱出には「命がけの飛躍」が必要!ただし、これは、人類文化のありようの大問題ですので、いまは一応の指摘に留めます。(「自覚した罪は半ば許されている」?)
ともあれ、明日の会での再会を楽しみにしています。

文字言語の問題については、クリックして下さい。この自覚がないと勉強するほど平面頭になっていきます。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする