思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

「集団的自衛権」、愛国心、フェティシズム、ロマン、批判精神、人間愛、、、対話が完結

2005-11-20 | メール・往復書簡

私のブログに対して、学生のヌルハチさんという方からコメントがあり、「ミクシィ」というブログ上で問答を繰り返しましたが、一応の完結をみましたので、改めて全文を載せます。誠実な対話が思索を深め豊かにする=いろいろな視点から事象をみることの有益さ・面白さの一例としてお読み下さい。ヌルハチさん、どうもありがとうございました。


「集団的自衛権」による戦争には一切協力しないことが「正しい」のです。子どもたちに伝えましょう

戦争という国家エゴイズムは、認めないことが「正しい」のです。

もし、そのような決定を政府がしたら、従わないのが「よい」ことです。

この原理的で簡明な思想を一人ひとりが明晰に自覚し、子供たちに教えていくことが、世界の平和をつくります。

自分たちの住む地域を直接攻撃された場合を除き(現実にはまずありえないことですが)、いかなる戦闘にも参加しないこと、これが正しい選択です。「レジスタンス」としての闘い以外の闘いはないのです。

したがって、「集団的自衛権」など認められるはずがありません。

もし、政府が戦闘行為を決定したならば、それには一切の協力をしないことが「正しい」選択です。

こうした考えをしっかりと子供たちに伝え、世代を超えた共通認識とすることが必要です。

自民党の改憲案を葬り去るためにも、上記の考えを子どもたちに明確に伝えていきましょう。

全国の大人がブレずに子どもの教育にあたれば、靖国=国体思想をひきずる政治家は生き残れないはずです。

平和への責任は、子どもたちに上記の「正しい」考えを、家庭や学校で伝えれば、誰でもが果たせます。

未来の社会と人間のための責任を一緒に果たしましょう!

お母さん、お父さん、学校や塾の先生、
為にする言説=国家を実体化させて「国のため」を主張する「詐欺思想」を元から断ち、一人ひとりの生身の人間=実存が先立つという哲学(恋知)の原理をしっかりと教え伝えて下さい。

(さまざまな事象・物事を考えるとき、国ー国家を先立てるのが思考の原理に反することは、普遍了解的な「真理」として哲学的に論証できます。ありのままの私の主観性=心の内側から自ずと湧き上がる声から出発する以外には、思想は根付く場所をもたないのです。右翼的・左翼的を問わず、あるゆる「超越的基準」に基づく思想は、思想ではなく、為にするイデオロギーでしかありません。私が「客観神話」と呼んでいる客観主義の思考法(「一神教」はそのおおもと)が、あらゆる無用の混乱と対立を生んでいる元凶なのですが、これは、欧米崇拝や天皇教や東大病などの社会的病理を生み出す暗黙の想念です。この問題は、現代の哲学(恋知)の最大の課題ですので、「民知ー恋知」論の続きとしてしっかり書かなければいけないと思っています。)

武田康弘

上記の記事を私のブログ「思索の日記」http://www.doblog.com/weblog/myblog/29972 に出したところ、今日一日で今までに300件のアクセスがありました(まだ時間があるので何件になるかは分かりません)感謝です。

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コメント コメントを書く

2005年11月10日
00:46
ヌルハチ

 初めまして、ヌルハチと申します。ふざけた名前ですか、常識や世間の流れに正しい疑問を持って生きたいと思っている者です。いくつかの質問を行うことをお許し下さい。

?抵抗としての闘い以外の闘いはない、とおっしゃっていましたが、「集団的自衛権」とは「やられる前にやる」という意味ですか?
?また、やられてからでは遅いのだから、自分たちの住む地域を直接攻撃されてから抵抗してもダメだ、という意見にはどうお答えになりますか?仮にイスラム過激派にテロ攻撃を受ける前に、テロリストだけを殺し市民を巻き添えにしない手段があったとしましょうか、テロリストに日本を攻撃される前にその手段を使うというのはいけないのでしょうか?
?国家には実体はないのでしょうか?あ、すいません、ないですね。国家も国境も恣意的なものですね。この質問はナシにします。
?ただ、国民を団結させるために崇拝対象を作るのはいけないことでしょうか?

 ちなみに僕自身の立場はまだハッキリしていません。これから本を読んだり人と話していく中で少しずつ固めて行こうと思っています。ぼんやりとですが、「戦争は避けたい」そして「今の日本には愛国心が足りないため、政治やお互いの国民を好きになれないことにつながっている」とは思っております。自分は「戦争は避けたい」と思っていても、戦争を肯定する人間に会ったときに自分の意思を曲げない自信がありません。先生とお話してそれができるようになれたら嬉しいと思います。

 お暇が出来たときで構いませんので、このコメントの返事を下さい。
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2005年11月11日
00:32
タケセン

?集団的自衛権とは、軍事同盟の加盟国のどこかが攻撃を受けた場合、攻撃された国を支援して一緒に戦うことを意味します。
?先制攻撃は、国際法上、認められていません。個人の場合でも同じで、相手が何かやりそうだと思ったから、という理由で先に攻撃することはできません。それを認めたならばどういう事態になるかは容易に想像がつきますね。
?愛国心とは何か?自国に対しての自然な親しみの心と、意図的にある国家像を愛するように仕向けることとは180度違います。実体のないものを「愛する」とは、精神病の一種でフェティシズムといいます。疎外感や不全感がもたらす幻影で大変危険です。以前に書いた「国とは何か?」(クリック)を見て下さい。
?団結させるとは、何のためにですか?
一人一人の生身の人間を愛し、優しい心を生み出すことは、団結という発想からは生じないでしょう。
以上、お答えです。

思考とは、自分のもつ「常識」を捉えなおす営みです。自分の頭で考える練習は、何より大きな「徳」と「得」をもたらします。ヌルハチさんにエールを送ります。では。

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2005年11月11日
17:55
ヌルハチ

 タケセン先生、すぐにコメントを下さってありがとうございます。「やられる前にやる」は国際法上禁止されていたんですか、知りませんでした。(だからアメリカは「やらせてからやる」を良く使うのですね。)
 ?-a国民の団結の目的の一つ目は、それを強めることで、(中国、ロシア、韓国との)領土問題、在日米軍問題、朝鮮民主主義人民共和国による拉致問題といった外交問題において、然るべき権利を主張する声を強くするためです。郷土への愛は国境がどうなろうと持続できるかも知れませんから領土問題は相手国の好きにさせてもいい(そこの住民が傷つけられない限り)としても、在日米軍にしばしば生存の危機をもたらされた人々、朝鮮民主主義人民共和国に家族を拉致された人々、あるいはされた当人といった被害者だけの声では弱いために今もこの問題が解決していないのではないのでしょうか?一人一人の生身の人間を愛し、優しい心を持つ人々の権利を守るための団結はいけないと思われますか?
 ?-b二つ目に政治無関心を解決するためです。政治が良くないならば、良くしてもらうために自分たちで何かをするべきなのです、そのために政治への関心が必要です。今の日本ではそれは愛国心に比例して希薄です。
 ?崇拝対象についてですが、フランスの2月革命(でしたっけ?)では「民衆を導く自由の女神」という自由主義の神様をドラクロワは描き、ブルジョワとプロレタリアの人々の精神を高揚させました。これによりウィーン体制という、共和政治を潰し君主政治を取り戻すための反動体制に大打撃を与えることができました。(倒したんでしたっけ?よく覚えていなくてすいません)正しいことのために人々を導くために崇拝対象を作るのであれば、その崇拝対象に実体がなくても良いというのが僕の主張です。
 確かに国体には実態はありません、「国を愛する」と称して「政府を愛する」、「政府のために自身を犠牲にする」ということはいけません。しかしながら、「国を愛する」と称してもそれが「国民や郷土を愛する」、「彼らやそれらを守るために何かをする(自身を犠牲にしなくても構わない)」ということならば、どうでしょうか?

ヌルハチ
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2005年11月12日
00:08
タケセン

?国民的団結で対抗する?という発想の問題は、すでに歴史的に審判が下っています。そういう古典的な考えで物事・事態が解決する時代ではありません。問題解決のためには、まったく逆の発想が求められるのです。
政治的無関心は、日本政府・文部省の方針が生み出したものです。批判精神とその能力を育てない(逆に押さえ込む)教育は、体制に流されるだけの無能な人間を輩出しています。
私の「問題提起としての書評」の後半をお読み下さい。
?元来は、人間ではなく衣服=下着などを偏愛する者のことを指す言葉であるフェティシズムの問題(目の前にいる生身の人間ではなく、国家を愛する)と、人間の生を支える「理念ーロマン」の問題とは次元の異なる話です。「ロマンとロマン主義」を見て下さい。「国民」ではない人は愛さないのですか?「人間愛」の方が基底的だと思いますが。私は、人間や郷土を愛するのはとてもよいことだと思います(だからこそいろいろな改革・改善運動に取り組み、成果を上げてきました)。しかし、他人に強要はできません。愛するように仕向ける!?まして強要するとは、おぞましい行為でしかありませんから。
最後に、自分を愛し、大事にすることができる人間だけが真に他者をも愛することができる、私はそう確信しています。
では、また。

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2005年11月14日
16:08
ヌルハチ

?「問題提起としての書評」は理解できませんでした。もっとしっかり読みこんでからまた書きたいと思います。
?「ロマンとロマン主義」でおっしゃていることは、「こうだったら楽しいだろうな!」を現実に持ち込むな、ということと解釈しました。具体的には、天皇が日本神話の神の子孫であるというお話があっても良いが、だからって天皇が神聖な存在だなどと憲法に書くなよ大日本帝国!ということでしょうかね。
 確かにお話と現実は別の世界です。だから先生はお話の世界を現実に持ち込むことを危険視なさるのですね。とは言え、お話を信じて人々が現実の世界でとった行動は良い方向に行くかも知れないと僕は思います。2月革命がそうです。逆に危険な方向に向いた例もあるでしょうけれども、大事なのはどっちの方向に向けるかということで、ある対象を崇拝してもらい何らかの行動をしてもらうこと自体が悪とは考えません。
 「国民」以外も愛すべきか否か、これは長くなりますので後ほどまたお答えしようと思います。

 返事が遅くなってすいませんでした。長い問答にも付き合っていただいてとても感謝しております。

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2005年11月14日
23:57
タケセン

よきロマンをはぐくむことは、何より大切。
しかし、「ロマン」を生活をよきものとするように生かすのではなく、「ロマン主義」になれば、独我論に陥ります。それが社会化すれば、ナチズムや大東亜共栄圏などの全体主義におちいります。フランス革命が曲がりなりにも成功したのは、ロマン主義を退治し、あらたな社会の原理を理念として提示しえたルソーなどの哲学者の存在が大きいのです。「個人性」に立脚した現実変革の理念を構築したことが、これがポイントです。
また、非常に大事なことですが、ロマンとは本来「個人性」にもとづくもの、もし、「集団化」すればおぞましく危険な事態を招来します。
「集団的ロマン」とは、言語矛盾なのです。必ず他者にロマンを強要することになるからです。そうなればロマンは死にます。個人のエロースから出発し、それを豊饒化させるための社会変革でなければ、変革は意味を失うのです。
まだ内的価値の培養を条件とするシチズンシップが根付かないわが国では、集団主義=外的価値信仰の危険がおおきいですね。
内的秩序ーロマンをゆっくりとしっかりと育てつつ生きられんことを切望しています。
では、また。

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2005年11月20日
01:06
ヌルハチ

 この6日間、考えておりましたが返せる理論がありませんでした。参りました。
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以上ですが、皆さまもご意見、ご質問、ご感想をぜひお寄せ下さい。
武田康弘



コメント
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