思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

from「団結ー愛国心」 to「批判精神と人間愛」(ミクシィー)

2005-11-12 | メール・往復書簡
昨日の続きです。
ヌルハチさんからの質問と、私の答えです。(ミクシィーというブログ内で)


タケセン先生、すぐにコメントを下さってありがとうございます。「やられる前にやる」は国際法上禁止されていたんですか、知りませんでした。(だからアメリカは「やらせてからやる」を良く使うのですね。)

 ?-a国民の団結の目的の一つ目は、それを強めることで、(中国、ロシア、韓国との)領土問題、在日米軍問題、朝鮮民主主義人民共和国による拉致問題といった外交問題において、然るべき権利を主張する声を強くするためです。郷土への愛は国境がどうなろうと持続できるかも知れませんから領土問題は相手国の好きにさせてもいい(そこの住民が傷つけられない限り)としても、在日米軍にしばしば生存の危機をもたらされた人々、朝鮮民主主義人民共和国に家族を拉致された人々、あるいはされた当人といった被害者だけの声では弱いために今もこの問題が解決していないのではないのでしょうか?一人一人の生身の人間を愛し、優しい心を持つ人々の権利を守るための団結はいけないと思われますか?
 ?-b二つ目に政治無関心を解決するためです。政治が良くないならば、良くしてもらうために自分たちで何かをするべきなのです、そのために政治への関心が必要です。今の日本ではそれは愛国心に比例して希薄です。

 ?崇拝対象についてですが、フランスの2月革命(でしたっけ?)では「民衆を導く自由の女神」という自由主義の神様をドラクロワは描き、ブルジョワとプロレタリアの人々の精神を高揚させました。これによりウィーン体制という、共和政治を潰し君主政治を取り戻すための反動体制に大打撃を与えることができました。(倒したんでしたっけ?よく覚えていなくてすいません)正しいことのために人々を導くために崇拝対象を作るのであれば、その崇拝対象に実体がなくても良いというのが僕の主張です。
 確かに国体には実体はありません、「国を愛する」と称して「政府を愛する」、「政府のために自身を犠牲にする」ということはいけません。しかしながら、「国を愛する」と称してもそれが「国民や郷土を愛する」、「彼らやそれらを守るために何かをする(自身を犠牲にしなくても構わない)」ということならば、どうでしょうか?

ヌルハチ
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2005年11月12日
00:08
タケセン

?国民的団結で対抗する?という発想については、すでに歴史的に審判が下っています。そういう古典的な考えで物事・事態が解決する時代ではありません。問題解決のためには、まったく逆の発想が求められるのです。
政治的無関心は、日本政府・文部省の方針が生み出したものです。批判精神とその能力を育てない(逆に押さえ込む)教育は、体制に流されるだけの無能な人間を輩出しています。
私の「問題提起としての書評」の後半をお読み下さい。

?元来は、人間ではなく衣服=下着などを偏愛することを指す言葉であるフェティシズムの問題(目の前にいる生身の人間ではなく、国家を愛する)と、人間の生を支える「理念ーロマン」の問題とは次元の異なる話です。「ロマンとロマン主義」を見て下さい。
「国民」ではない人は愛さないのですか?「人間愛」の方が基底的だと思いますが。私は、人間や郷土を愛するのはとてもよいことだと思います(だからこそいろいろな改革・改善運動に取り組み、成果を上げてきました)。しかし、他人に強要はできません。愛するように仕向ける!?まして強要するとは、おぞましい行為でしかありませんから。
最後に、自分を愛し、大事にすることができる人間だけが真に他者をも愛することができる、私はそう確信しています。

では、また。

武田康弘

追記:二人のファザコン男=小泉、ブッシュは、本質的に小心で次元の低い思想しか持たないがゆえに、国家や軍事に頼りますが、こういう人間たちに政治を任せるようでは、両国の国民には救いがありませんね。
小泉、安部、石原タイプの人間が大きな顔をする日本社会をチェンジしましょう!!





コメント
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