思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

山脇さんとのメールでの思想対話ー「和」の精神について(付・ユネスコ報告)

2005-11-17 | メール・往復書簡

以下は、公共哲学ML内での山脇さんと私との対話です。

山脇直司です。

一週間前の6日に日本を発ち10日の昼までパリのユネスコ本部で開かれた文明間対話の国際会議に出かけてきました。ドゴール国際空港に着いて電車で何事もなく市街に入りましたが、途中止らなかった郊外の駅が危険なため、前日まで日本の外務省からこの電車には乗らずタクシーで市街に来るようにとの通達があったことを後で知りました。エールフランスの機内で読んだ英字新聞には、今回の暴動の背後に、we are French, but not real French という深刻なアイデンティティの差別問題があるということが書かれていました。パリ市街はほとんど平穏でしたが、そうした中で開かれた文明間対話の会議で私が報告したテーマはWAについてでした。すでに松浦事務総長の影響もあって、ユネスコのアフリカ諸国で人気のあるWAという概念は、WARと鮮やかなコントラストを成すコンセプトとして、更新され、世界に発信されるべきtransversal(通底的)な価値であることを、私は強調しました。ユネスコは、アメリカの影が薄く、アフリカやイスラム圏に対する影響大の重要な国連機関なので、そこでの平和国日本の果たすべき使命は大きいと私は考えます。私は、「和して同ぜず」をharmonizing without assimilation と、また中曽根康弘のインチキ哲学を粉砕すべく、現憲法の前文を引用しながら、「和・環」をharmony in diversity and differences, peace based upon reconciliation と意味を更新し、また「やわらぐ」「なごむ」といった日本語のよさを強調しつつ、WAのもつ意義を発表しました。そのabstract を添付ファイルにしましたのでご覧頂ければと存じます。いずれにせよ、日本・東洋思想の「弱点」を踏まえつつ、「世界に発信しうる価値」を再発見・脱構築・更新していくことも公共哲学の重要な課題だと思います。かつてサルトルやマルセルが熱弁をふるったユネスコは、21世紀の危機に対して哲学教育を重視しており、この意図に昨年からコミットし始めた私は、トランス・ナショナルないしグローカル公共哲学を日本から発信すべく、さらに今月末にはソウルで開かれる「アラブ世界とアジア世界の地域間哲学対話:民主主義と社会正義」で新たな報告(自由民権運動・大正デモクラシー・戦後民主主義の哲学歴考察)を行う予定です。ともあれ、このWAという考えについて、皆さまからコメント頂ければ幸いです。

Abstract

Toward a Renewal of the Concept “Wa”(和、環) for the Culture of Peace

Naoshi Yamawaki

In this paper, I would like to make a renewal of the concept ”Wa”, which originated from Confucius and can be regarded as one of the most important heritage in East Asian tradition. In the Chinese tradition of thought the well-known proverb “Wa shite Do zezu(和して同ぜず)”, which I would like to translate as“public spirituel person harmonizes but never assimilates”, presents a great principle for human conviviality. In Japanese tradition too, Wa (和) has been used as the meaning of harmony and peace since the time of Shotokutaishi(574-622?). However, Wa(和) in Japanese tends to have also the meaning of conformity, concordance or behaving similarly. Indeed, this meaning played a very totalitarian role in the Japanese modern history as “the Cardinal Principles of the National Polity” issued by Minstry of Education in 1937 showed.

Nowdays, I think that this concept Wa(和) should be radically deconstructed as well as reconstructed for the culture of peace. I mean that Wa(和), which also connotes “peace (Heiwa,平和)” and “harmony (Chowa, 調和)”, should connote “reconciliation (Wakai, 和解)” too, which is a matter of importance for the intergenerational responsibility. The intergenerationally responsible Japanese must therefore assume the burden of resolving the responsibility for the grave errors that the Japanese past generation committed in the modern history and must continue to criticize them. Only then, Wakai (和解) would occur between Japan and Korea as well as China and the solidarity for the future generations would be born between them.

Beyond the confines of East Asian tradition, this new concept of Wa could send a message on the global level. It strongly opposes “the enemy-friend thinking”, which was formerly represented by Carl Schmitt and is nowdays represented by Sammuel Hungtington. The pronciple “Wa shite Do zezu” suggests a horizon to overcome both the individualism and collectivism.

I hope this concept could contribute to the peace all over the world. Indeed, Heiwa(平和) and Chowa(調和) could not come into existence without Wakai(和解). Wa in Japanese has also the meaning of circle(環) and connotes the circle of humanbeing. Moreover, Wa in Japanese verb (和らげる) implies the softening or easing conflicts and Wa in Japanese adjective (和やかな) means to be friendly.

From this perspective, Wa(和) should be now reconstructed in terms of Wakai(和解), Heiwa(平和) and Chowa(調和) in order to generate the “reconciliation-promoting gentle human solidarity” ( Nyuwa de Yawaragiaru Rentai no Wa, 柔和で和らぎある連帯の環 ) in the world, which makes a sharp contrast with “War” and contributes to the culture of peace.


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武田です。

山脇さん、ご苦労様でした。
早速ですが、「WA」(和)について直感的に思うことを一言します。
日本ならざるものを排除する、
フランスならざるものを排除する、
仲間ならざるものを排除する、
という役割も果たしてしまう「和」の精神は、別名「差別」の精神ですが、そこをどう乗り越えていくか?ですね。
「差異」を尊重し、それに依拠した営みを具体的現実・生活の中で実践するためには、どうしたらよいのか?
それを可能にする方法の発見こそが核心だと思います。
「和」とは結果としてもたらされるのであり、予めの和の精神=和それ自体を目的化すれば、意に反して必ず「差別」や「抑圧」や「排除」を結果する、
私はそう考えます。


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武田さま
山脇です。

仰るとおり、聖徳太子17条憲法の「和をもちて尊しとなす。逆らうべき事なきを旨とせよ」は「和」と「同」の差異をなくする危険を内包していると思います。1937年に文部省が発令した『国体の本義』は最悪のケースでした。しかし、『春秋左氏伝昭公20年』(岩波文庫)では和と同が峻別され、『論語、子路編』では「君子は和して同ぜず」と「小人は同じて和せず」とされており(これは組織原理として重要な意味をもつと私は思います)、こうした古典的意味を「やわらげる」などのソフトな女性原理を加味して現代的に脱構築・再構築し、ピコ・デッラ・ミランドーラ、エラスムス、スピノザ、マテオ・リッチ、ライプニッツ、シュライエルマッハー、日本国憲法などの平和・調和・生命の哲学と連帯し、カール・シュミットの敵味方思考やハンチントンの文明衝突論と対決するというのが、ますます危険度を増している現代国際社会に対する、私の根本的な戦略とメッセージです。とりあえず簡単なお返事のみ。
山脇直司

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山脇様。
武田です。

はい、お返事ありがとうございます。
私は、極めて意識的に「和して同ぜず」の実践を続けてきましが、
そのためには、大きな覚悟ー四面楚歌の覚悟ー無理解や反発や排除をわが身に受ける覚悟がなくてはできません。
恋知(哲学)の身体化=生身の私自身がその思想を日々身をもって生きるのは、「理論的整理」の次元とは截然と異なる「全実存」を賭けた厳しい生の営みです。
仲間にさえ迎合せずに、「同ぜず」(しかし存在次元では深く他者を受け入れる)という真の「精神的自立」を果たすのは、容易なことではありません。
厳しい対話ー議論を避ける精神と「和して同ぜず」は、二律背反です。意識の底が深く大きいー柔らかくかつ剛毅な人間を育てることー「差異」に基づく「手強い人間」の育成を私は目がけてきました。平気でバカが言えバガができるスケールの大きな人間=真に自由でかつ深い納得(知識ではなく)を生み出す力をもつ「民人」が日本も世界も変える!といけたら素敵だな、と思いつつ。

知の捉え方、遇し方の根源的変革(民知ー恋知)は、そのための絶対的な前提です。
「和して同ぜず」を言葉次元から飛翔させて日々現実に生きることは、恐ろしいことです。しかし、それは又、何にもまして深いエロースの生を招来します。
私の場合、「実存主義(論)」とは、対象化された哲学史上の話とはまったく無関係で、日々の私自身の生を指します。「和して同ぜず」といきたいものですね。共に!

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以上です。山脇直司さんは「公共哲学とな何か」(ちくま新書)の著者で東大大学院教授です。

上記のやり取りを読んで「白樺ML」のメンバーの古林治さん(コンピュータのシステムデザイナー)が書いたメールを以下に貼り付けます。

(なお、シリーズ「公共哲学」(東大出版会)の金泰昌(キムテチャン)さんから昨日電話があり、私の「和」の捉え方に強く賛同するとのことでした。日本社会では、差異に依拠する厳しい対話が成立しない、しかしそれを欠けば、どうころんでも「同」にしかならないと。)

古林です。

『和』の精神、厄介な思想です。特に日本人がこれを発するときには。
精神的な自立がないまま、この『和』を強調するとどうなるか。
多くの場合、それは批判を封じ込め、『より良い』を求める心を破壊し、変革を妨げ、
既得権益を守るだけの思想に堕します。

・長い物には巻かれよ。
・付和雷同。
・大人になれ。
まさに日本の社会です。

一方、私の経験からすると米国では、往々にして肥大化した自意識同士の喧嘩で空中分解ということになりがちです。

ここで『和』が成立するための条件は、優れたヴィジョン、コンセプトを提示することです。
そうすれば、自意識は引っ込みます。
精神的な自立と純粋意識の発露があれば『和』は成立するのかもしれません。

思い起こすと、息子の高校=「自由の森学園」(埼玉県飯能市)の再生を妨げた最大の原因は『和』の精神でした。
おそろしい!



コメント
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