思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

金泰昌・武田康弘の恋知対話ー4

2007-06-13 | 恋知(哲学)

金泰昌様 2007年5月27日

「私」―自我と、純粋意識 / 「ルールとしての人権」思想

「私」から始める、というキムさんのお考えには、全面的に賛成です。実存思想は、わたしの人生そのものですから。

けれども、「私」から始めるという時の「私」とは、わたしの場合、対象化された己=自我ではなく、「私」の意識の水面下を見ることから始まります。自分自身の「黙せるコギトー」の声を聴く練習が、哲学するはじめの一歩=実存論の原理だ、と考えているのです。
 言語化される以前の広大なイマジネーションの世界を感じ知ること、「私」の中の無限の宇宙に驚き、悦ぶことが、哲学することの芯だと思うのです。
したがって、私=哲学の出発点とは、言語化され、経験的な次元で自我となった「私」ではなく、沈黙の深層である「黙せるコギトー」=広大な「宇宙」なのです。
それに声を与える作業、言語化していくプロセスが、哲学の練習であり、現実化であると考えています。

以上の意味で「哲学する」のは、日本人のみならず、「私」の純粋意識ではなく「私」の自我による思想の闘いに明け暮れる世界の人々にも、とても大切なことだと思っています。

次に、日本人が抽象思考とか一般化思考を好まないのではないか?というキムさんのご質問ですが、現状は確かにその通りだと思います。その現実を変えるために、『白樺教育館』では、意味論・本質論としての学習にとり組んでいるわけです。

また、「神妙な無責任・脱責任体制」の問題、及び、「細かい小さな違法行為は法によって処罰されるが、巨大・強大な反法行為は天下を横行してそれを制するものなし」、というキムさんのご指摘は、全く同感です。その異常な社会のありようを正せない日本人の問題については、私は「思想なき人間は昆虫の属性をしめす存在にすぎません」というブログにも書いた通り、無自覚のうちに誰でもがもっている思想=価値意識の束を、顕在化・意識化する努力の必要を訴え続けてきました。『白樺』における哲学実践もそのような考えの元に行われています。

最後に「私」と「公」の問題です。
「私」とは、エゴイズムだからダメだ、という俗流「道徳論」と、その思想に基づく強者の「私」にすぎない「官」による日本支配の問題ですが、その現実を変えるための原理的な思想を「共生社会のための二つの人権論」という本に現した金泰明(キムテミョン)さんが、昨日『白樺教育館』の大学クラスに参加され、その後で、夜遅くまで対話しましたが、自己中心性からの出発は哲学の原理であること、そこから「ルールとしての人権」という考えが導かれるというのは、わたしたちとも完全に一致するものと思いました。
しばしば、「官僚独裁国家」と規定される日本社会を内側から開いて行く基本条件は、キムさんの言われる【「公人」とは結局「私人」たちが出した税金を使って私人たちの幸福を実現し、それを妨害するものから保護するための生活装置の管理・運営を委託された代理人である】という民主制社会における「官」の本質をみなが自覚することですが、立憲主義の国家においては、「憲法」の理念と条文に示された市民の意思を守り・実現することが仕事・職務であるはずの公務員、とりわけ官僚がその原則をわきまえるように指導する必要も大きいと思います。公務員研修に携わるキムさんに期待するところです。私のみるところ、その原則への明晰・透明な自覚を持っている人は少なく、愚かな想念―国家の指導者気取りの官僚が多いようです。これは深い思想の闘いですが、そのためには、誰もが納得せざるを得ない原理的思想(民主制社会の原理)を示すことが必要だ、というのが私の考えです。いかがでしょうか? 武田康弘

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武田康弘様 2007年5月30日

ソウルから。「自分の私」ではなく「他者の私」の尊重―自己中心性のワナ

5月28日から韓国ソウルに来ています。27日付武田さんのメールは昨日、池本さんから送ってもらいました。

まず「私」のことですが、もしかしたら武田さんの考え方とわたくしのそれが違うのかも知れません。ですから丁寧に語りあう必要が感じられます。わたくしの基本的な考え方は「私を活かす=活私」から公共哲学的思考・判断・行為・責任を始動させるべきだということです。「私」から始めるというのとはやや違うのではないかという気がします。そして「私を活かす」という場合、その「私」は「自分の私」ではなく「他者の私」を優先するということです。自分自身=自己というのは単独でおのずから生成するものではなくて、他者との関係の中で他者との対比を意識する過程で生成・形成・造形されるもの―ものというよりは出来事・事件・ことというべきです。今まで「私」を専ら「自分自身の私」に限定し、それだけに執着し他者への開き・かかわり・つながりを重視しなかったから「私=エゴイズム―自我至上主義」という捉え方が固着したと思うのです。

 「私を活かす=活私」とは「他者の私」を無視・否定・排除することによって成立する「自分自身だけの私」ではなくて、「他者の私」を認め・尊重し・敬意をはらうという他者への関心の濃度に正比例して生成・生長・成熟する「自分自身の私」という自他相克・相和・相生の連動の出発点とも言えるでしょう。

 ですから、“自分自身の「黙せるコギトー」の声を聴く練習が哲学するはじめの一歩=実存論の原理”というのは自己論=自己哲学の基軸として過去から現在に至るまでの正統哲学によって強調されてきた哲学のあり方の標準でありました。わたくしも長い間そのような哲学の訓練を受けましたし、またそのように教えたのです。しかし、1990年の来日以来、日本とアジア、そして日本と世界の関係を政治とか経済とか貿易とか安保という側面に焦点を置いて考えるのではなく、「哲学する」という立場からその大本を見直すという場合、どうしても気になるのが個人的・集団的・国家的・民族的自己中心性への執着から生じる他者無視・弾圧・否定という問題であります。それはどちらかと言いますと、自己から他者に向かっての一方的な心理・行動・態度・判断です。結局、自己中心性のワナにはまっているということです。

 武田さんのおっしゃる“「私」の中の無限の宇宙に驚き、悦ぶことが哲学することの芯”というのが自分自身とは全く違う、自分自身の全てをもって最善の努力をしても尚かつ理解と納得の彼方に、自分自身の一切を超越して自分自身に問いかけてくる他者の存在とその中に隠れている無限の未知の宇宙に畏れを感じ、身勝手な同化を戒め、いつでもどこでも自己反省・自己批判・自己再生を促す「他者の私」と、それと連動する働きを通して生まれてくる「自分自身の私」を同時に意味するのであればまったく同感するところであります。しかし、今までお会いし、語り合った数多くの日本人学者たちの場合は、ほとんど「自分自身の私」の中だけを深く深く探っていくということに偏重していました。

わたくしはまだ金泰明さんとはお会いしたことがありませんし、彼の著作を読んでもいないわけですから、なんともいえないのですが、わたくしは所謂「人権」というのは一般論としては誰もが一応、その重要性と必要性を認めながらも具体的・実践的な問題として「誰の人権」なのか、そして、「人間の公的人権」なのか、それとも「私的人権=私権」なのか、どこまで念頭に入れ、どこまでを保障するということなのかということも誠実に考えてみる必要があります。「人権宣言」が「人間と市民の人権宣言」という言い方をしているのも「私的人権」と「公的人権」をきちんと念頭に入れた人権の公式化・公認化を意味するものと捉えます。わたくし自身はそれに加えて今後、公共的人権論というのを皆様とともに議論していきたいと思っています。武田さんも憲法の問題に言及なさいましたが、従来の憲法論―日本での議論という意味です―の人権論は圧倒的に公的人権論に偏っています。民法で「私権」が尊重されるという原則が明示されていますが、わたくしは今後、国家・政府が一方的に公認する公的人権論ではなく私人が人間として国家・政府に対して要求し、それが尊重されることを権力を持っても、妨害・阻止できないという公共的人権論を強調したいのです。国家・政府の自己主張の一方的強制ではなく、私人=人間=市民という他者とのかかわり方を一変させるところから始まる哲学こそが公共哲学であると思うのです。なんだか急に堅くなりました。すみません。武田さんのお考えをお聞きしたいです。
金泰昌


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