思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

金泰昌・武田康弘の恋知対話ー5

2007-06-14 | 恋知(哲学)

「ソウルからの手紙」への応答 2007年5月31日

独我論は、主観性の開発・掘り進めがないと越えられない。

キムさんのソウルからの応答文は、一言で言えば、「独我論」をどう乗り越えるか?ですが、これはなかなかやっかいな問題で、十数年前にわたしが企画した討論会のテーマでした。サルトルやポンティの邦訳者で哲学者の竹内芳郎さんと、当時、文芸批評家で独自のフッサール読解を世に問うていた竹田青嗣さんを中心に行いましたが、都合6回、一年以上にわたる議論は白熱したものとなり、最後は空中分解に終わりました。

キムさんの一番はじめのお考えー「わたくしの基本的な考え方は「私を活かす=活私」から公共哲学的思考・判断・行為・責任を始動させるべきだということです。」という思想には、わたしも共感し賛同していますが、その「私」をどのように位置づけるのか?「自分の私」=自我と「他者の私」=他我の問題をどう考えるのか?という純哲学的な次元の問題になると、確かに違いがあるようです。

この込み入った問題を「往復書簡」という枠組みでうまくできるかは疑問ですが、できるだけ明晰化するように努力してみます。

まず、「「他者の私」を認め・尊重し・敬意をはらう」にも「自他相克・相和・相生の連動」にも全く賛成ですが、それは、やはり、私(例えば武田)がそのように思い・考え・生きるわけですから、「私の決断」なのだという自覚は、いつも持ち続ける必要があるはずです。「他者の信憑」も「私の意識」において成立しているのだ、ということの自覚が弱まれば、却って他者との相克・相和・相生も難しくなってしまうでしょう。
「他者の私を優先する」という思想や行為であっても、自分がそう考え・そう行為しているわけですから、それが「自分の考え」であることに変わりはありません。また、世界の内に存在している我々は、自分の外にある世界・他なるものと一緒にでなければ「考える」こともできませんから、自・他・世界は、連動して働いているわけですが、「私」=自分の考え・行為には、私が責任を負うしかありません。

確かに、「『自分自身の私』の中だけを深く深く探っていく」というのは、不毛でしかありませんが、逆に「自分の私」を放棄してしまえば、外的人間になってしまいます。わたしもずっと長いこと、他者(子どもや異性とも)と共に哲学し、そうすることで自他を豊かにする営みに精魂を傾けてきましたが、自分が直接できることは、「自分の考えを広げ、深め、豊かにすること」であり、他者もまた同じです。

「自分自身=自己というのは単独でおのずから生成するものではなくて、他者との関係の中で他者との対比を意識する過程で生成・形成・造形されるもの―ものというよりは出来事・事件・ことというべきです。」というのは、全くその通りで異議はありませんが、わたしが言う、【「私」の中の無限の宇宙に驚き、悦ぶことが哲学することの芯”】と少しも矛盾する話ではありません。自分自身=自己の発生過程を知ること、その本質を知ることとは、次元を異にする話なのです。「私」は「他」が驚き・悦んでいるのを感じ知ることはできますが、その内実は、「私」の確信としてもたらされる以上にはなれません。他者を知り、同情あるいは共感・共鳴することはできますが、他者の具体的経験を他者に成り代わって「私」がすることは出来ないからです。その原事実をよく自覚することが、外からの要請ではなく内側から「独我論」を破ることになるー他者の私(他我)と共に哲学することによって、「私」(自分の私=自我)の主観を鍛え、掘り進め、その深化・拡大を目がける作業が、客観主義に陥らずに主観主義(独我論)への転落を防ぐ唯一の方法だ、私はそう考えているのです。なお、ついでに言えば、独我論が困った問題なのは、それが自他の悦びを広げられない思想だからです。

次に、人権思想についてですが、キムさんの主張されている「公的人権」でも「私的人権」でもない「公共的人権」の内実は、金泰明さんの「ルールとしての人権」という思想にあると思います。それは互いの「自己中心性」を認め、そこに依拠しつつ、内側からそれを超えていく思想です。

では、ソウルへの旅でお疲れがでませんように。旅の安全をお祈りしています。
武田康弘


武田康弘様  2007年6月1日

「自分の私」を立てるにも「他者の私」のを活かすことが何より大事

 昨夜は18時から23時まで西江(ソガン)大学の哲学部の教授及び大学院生たちと公共哲学の具体的な問題を心を開いて語りあいました。問題はいろいろ出ましたが、他者論=他者の哲学=自他関係論が純哲学的な次元というよりは正に現実的・実存的な次元から詳細に議論されました。韓半島は常に外国=強大国=外部=他者からの直接・間接脅威を受けつづけていますし、国内外の諸々の状況が日本のように平穏無事ではありませんから感覚というか、捉え方が日本とはかなりちがいます。十年前のこととか、竹内芳郎さんや竹田青嗣さんと現在のわたくしは、全然ちがう立場―状況―観点―問題意識―現実対応に逼られています。ですから「哲学する」友であり、共働対話者である武田さんと向きあって語りあうということも彼らとの対話とはその方向も内容も、またそこにかける期待も同じではないのが当然です。

 「独我論」をどう乗り越えるか?という哲学的問題でありますが、わたくしが武田さんと共に考えたいのは、日本人にとっての韓国人―韓国人にとっての日本人やそれ以外の多様な自国人=自己対外国人=他者が世界のいたるところで政治・経済・社会・文化・宗教などなどありとあらゆる分野・局面・境遇で対立・衝突・紛争の原因になっていますし、そこから言い切れない悲惨な悲劇が生じているわけですから、十年前の議論が空中分解に終わったからと言って放棄することができないのです。

 武田さんがおっしゃるように“「私」の中の無限の宇宙に驚き、悦ぶこと”と“他者の「私」の不可思議・理解不能の深奥”との両方を相関媒介的に考えることが大事であるということを申し上げたわけですから、武田さんとわたくしのあいだにそれほど大きなちがいはないという気がしました。よかったと思います。それは考え方が互いに似ているからよいというのではありません。互いに正直な対話ができてよかったということであります。“他者の驚き・悦びの内実を「私」の確信としてもたされる以上にはなれません”し、“他者の具体的経験を他者に成り代って「私」がすることは出来ない”からと言って、自分自身の内面に閉じ込むのではなく、そのような不理解・不把握の彼方にいる他者を他者としてそのまま尊重することが何よりも重要だと思うのです。他者を自分自身の理解・納得・解釈の枠の中に回収・消化・位置付けしようとするから他者の他者性を奪取することになるのではありませんか。勿論“私の決断なのだという自覚”が必要ですし、“「自分の私」を放棄してしまった外的人間になってしまう”ことを是認しているのでは決してありません。「自分自身の私」を強化するために「他者の私」を犠牲にし、排除し、否定するのは結局「自分自身の私」の犠牲・排除・否定をもたらすことにもなるということを言いたいのです。ですから「自分自身の私」をきちんと立てるためにも「他者の私」を活かすことが何よりも大事な思考・判断・行動・責任の原点ではありませんかと問いかけているだけです。

 武田さんもおっしゃっていますように“「自分自身の私」の中=内面の宇宙だけを深く深く探っていく”というのは不毛であるだけではなく、他者無視の横暴にもなりますので、それが現実的・実存的に深刻な問題であるとわたくしは思うということです。
昨夜の議論の中にも人権論が出てきました。人権弾圧の極限状況の真只中で、いのちがけの闘争をつづけ、結局ある程度の成果を勝ちとった民主化運動の実体験をもっている人々ですから抽象的・文献的考察ではなく、生生しい体験に基づいた現実論でありました。武田さんのことも皆さんに紹介し、30年以上の間、専ら自力で一市民としての哲学運動を展開してきた「哲学する市民」の姿に深い共感を感じたようです。

 自己と他者の問題はフッサールやサルトルやメルロ・ポンティが誠実に取り組んだ問題でありましたし、それがデリダ、レヴィナス、リクールそしてトドロフなどに継承されてきた大問題ですから往復書簡を通して語りつくせないでしょう。わたくしも決してこのようなかたちで決着がつくとは思いません。ですがこの問題が、今のわたくしにとっては、最緊急課題の一つですので、日本でも中国や韓国でも共に語りあっていくつもりです。
 今日は朝からアジア哲学者大会に行きます。何かありましたらお知らせします。
ソウルから 金泰昌


ソウルへの手紙―2 2007年6月2日 武田康弘

哲学は、民知にまで進むことで始めて現実性をもつ/「集団的独我論」を超えるには?

キムさん、ご活躍ですね。よろこばしいことです。
海を隔ててリアルタイムでの往復書簡、とても愉快ですね。インターネットの善き活用です。

早速ですが、本題です。
キムさんの言われる通り、十数年前の独我論を巡っての論争と、いまのキムさんと私との対話が、その方法・内容・方向を異にするものであるのは当然ですが、ただし、その問題の本質は不変だと思います。

もちろん私は、独我論者でも主観主義者でもありませんので、他者の私を活かすこと・他者の他者性の尊重については、キムさんと全く同じ思想です。ただ、私が思う「哲学する」とは、そのような思想や理念を具体的現実にもたらすにはどのように考えたらよいか、それを皆(私の場合は、私自身と一般の日本人の現実から始まる)の赤裸々な意識の現場から探る営みです。
さらに言えば、予めの理念やすでにある思想を前提にせず、深く生の現場から思想や理念を生み出す試み、単なる言語的・理論的整理を越えて、皆の生活実感にまで届くように「考え」を練り進めること、その営みを私は民知としての哲学と呼んでいますが、そこまで進んではじめて哲学は現実的な力を持つと考えています。

なお、わたしは、この「民」ということばにマイナスの意味があることは承知していますが、だからこそあえて「民」を使うのです。柳宗悦らの『民芸』―高級品でない普段使いの品々には「用の美」があり、そこに普遍的な美しさがあるとする見方をわたしは支持していますが、それと同じく『民知』という「用の知」としての哲学に、学知としての哲学以上の価値を見るのです。伝統的な意味・価値の呪縛から自他を解き放つ「文化記号学的価値転倒」の営みだと言えましょう。

話を戻します。
独我論の問題ですが、どうもいまの日本では、「論」という次元を遥かに越えて、思想はいらない、主観それ自体が悪であるという想念が蔓延しているようです。政府が示す枠組み=思想については疑わず、その枠内で考えるというわけです。教師や公務員(に限りませんが)は、政治的意見を言ってはならない!と多くの人が信じ込まされている集団同調の国では、思想上の論争それ自体が成立しません。思想を語るのは、権力者と一部の選別されたコメンテーターのみに許された行為のようです。愚かな話ですが、独我論は、溶解して日本主義という「集団的独我論」となっていますので、出口が失われています。この入り口も出口もない状況を変えるには、ふつうの市民が自分で考える営みをするための条件整備―根本的な発想転換・価値転倒が必要で、それがわたしの進める民知としての哲学です。従来の思考法・学を越えて、自他の心の本音=黙せるコギトーに届くまでに「考え」を練り、揉み、進化させなくてはいけないと考えています。それは、恐らく人類知性のありようの転換という地点にまで進み行くのではないでしょうか。言語中心主義を超える壮大イマジネーションの哲学ですが、心身全体による会得を原理としますので、温故知新の試みとも言えます。

少しズレました。わたしは、この「集団的独我論」という矛盾した概念として表現する他ない事態を変えていくための原理は、自分の意識の内側をよく見ること、わざと徹底して主観に就くことだと思います。自我の殻を破って広がりゆく精神=純粋意識は、自分を深く肯定できないとよく働かないからです。肝心なのは、意識の二重性の自覚=自我(経験的な次元)と純粋意識(意識の働きそれ自体)の違いをよく知ることでしょう。
そもそも意識とは何ものかについての意識であり、それ自体を取り出すことはできませんから、私の意識をていねいに見ることは、意識の内実である他我・自我・物・自然・・をよく見、知ることになります。
元来、哲学とは主観性の知です。多くの人が専門知や事実学による抑圧から解放され、主観を開発し、自分の頭で考えることを可能にするための「考え」をつくり、それを実践すること。それが何より急務だと思っています。

今回は、哲学の出し方=始発点の問題と、そこから帰結される民知という考え方=
民知にまで徹底された哲学について触れました。もし、市民・生活者による公共哲学が可能ならば、それは民知による他はない、と私は思っています。キムさん、いかがでしょうか。
では、今日のところはこれくらいで。健康に留意され、更なるご活躍を。

武田康弘


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