思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

金・武田の恋知対話2-3【公共する主体は市民です】

2007-06-20 | 恋知(哲学)

金泰昌様。
2007年6月20日 恋知対話2-3(通算19) 武田康弘

対話2-1 「自己という中心から公共性は生まれる」
対話2-2「武田さんと共働・開新へとつづくことを期待」
を先にご覧下さい。


【公共する主体は市民です】


東京での第74回公共哲学京都フォーラム「横井小楠と公共世界」、実り豊かであったとのこと、よかったですね。キムさんご苦労さまでした。
早速ですが本題です。

わたしは、自分自身および子どもたちが、どのようにして公共的な世界を開いていくかを実情に即してよく見ることが何よりも大事であると思っています。「あー、そうか。公共的な世界・社会的な問題を考えるのって面白い。自分の世界が広がって得だな~。」そう思えるような考え方・生き方・生活仕方をどう作りだすか、それが核心のはず。
公共世界を開くには、実践的思考が必要で、単なる理論・学・知識ではどうしようもありません。公共哲学をほんらいの公共の意味である皆に開かれたものにするには、ふつうの多くの人が心の底から納得できる考えを示す必要がある、というのがわたしの考えです。

もちろん、キムさんの特異で貴重な体験から立ち昇る哲学が、現在まで学的世界において素晴らしい成果をあげてきたことには深い敬意を払っていますが、これからの若い人たちが(わたしもまだ十分に若いですが・笑)公共世界を自分たちのものとして開くには、日々の学習や生活の中でそれを身近なものと思えるような発想と実践が求められていると確信します。

そういう意味で、学者中心の公共哲学はそれ自身において問題を孕んでいる、とわたしは見ます。学者はふつうの市民がよりよく公共世界を開くサポート役であるべきで、公共を担う主体者が学者であるというのでは困ります。それでは公共にはならないからです。ついでに言えば、哲学も同じです。どのように生きるのがよいか、どのような社会であればよいかを考えるのは、ふつうの市民であり、従って哲学する主体は市民です。これを理念としてしっかり置かなければ、公共も哲学も死んでしまいます。後には、反・民主的な思想と衒学的で無意味な知が残るだけです。

わたしは、数々の業績を持つ優れた学者であるキムさんと裸のお付き合いをするのは大変愉快です。対話する中から、力をあわせて、新世界を開いていきたいものですね。「公共することの具体的な意味は、対話する・共働する・開新する」にあるということ、「他者との出会い・他者と向きあってたがいの存在をきちんと認め・その価値と尊厳に敬意を払い・一方的な強制・支配・所有(我有化)を戒める」のが公共する哲学の前提条件であることは、私もそのまったくその通りだと思っています。

「他者の他者性の尊重」をことばや主義ではなく、日々の生活や仕事の中で自分自身の具体的な言動として為すことにわたしは長年努めてきたつもりですが、それが白樺における小中学生の授業や高校・大学・成人者の自由対話に基づく哲学実践に結実していると自負しています。
従来の学校(小学校から大学まで)の授業ではなく、参加者を主体者にまで高める教育実践はエロース溢れるものですが、自由な雰囲気の中での対話方式による学習から豊かな実りを得るためには、基礎的な思考方法(自分の具体的経験を踏まえて、意味をつかみ、本質に向けて思考する態度)をしっかりと身に付ける(付けさせる)必要があります。
そのように従来の教育の常識とは大きく異なる考え・方法によらなければ、ほんとうに他者を生かす教育・哲学実践はできないと思います。教育者・主宰者はサポーターに過ぎず、参加者が主体者として生き生きと考え発言するという状況をつくるのは、確かにひどく困難ですが、その方向に歩を進めない限り未来はない、というのがわたしの考えです。長年、多くの実践に関わってこられたキムさんはどう思われますか。




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