思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

金泰昌・武田康弘の恋知対話ー6(パート?の最終回)

2007-06-15 | 恋知(哲学)

武田康弘様 2007年6月4日

「哲学する友」へ 他者の他者性の尊厳を重視する。

 昨夜、大阪に戻りました。今回ソウルでのアジア哲学者国際会議を通していろいろ感じたことがありました。その中でも特に21世紀の人類と地球がかかえている哲学的問題状況、そして特に東アジアの哲学的問題状況をどのように捉えるかということを改めて考えさせられました。理論的・文献的情報・知識の交換ではなく、それぞれの国家と社会と人間が置かれた政治的・経済的・宗教的・文化的そして実存的現実条件に基づいて一人ひとりの具体的個々人が身体・心情・精神を通して実感する問題群への人格的対応・決定(決断)・責任の在り方を問うということです。

 武田さんはわたくしの「哲学する友」という、わたくしの熱い思いがあるからこそ、あえて申し上げるのですが、十年前の独我論に関する議論と、現在の武田さんとわたくしの対話における問題の本質は不変だという点はたがいに改めてよく検討する必要があるのではないかという気がします。問題は不変の本質というよりは発展・変化・進化する出来事ではないでしょうか。フッサールもサルトルも、そしてメルロ・ポンティも物凄い情熱と高度の知性を総動員してこの問題に取り組みましたけれど、意識哲学の立場からは自他意識の隔たりを埋める(媒介する)ことが結局不可能でありましたし、唯一の代案と言えば、自己(意識)のワナから脱出して他者へ向かう超自我的指向性を躍動させるということでありました。しかしそれが何らかのかたちで自己(意識)の拡大・開展・進化の(大きな?)地平=世界=宇宙の中に他者(意識)を包容するのであれば、すでに他者はその他者性を自己の拡大の中で消失してしまうのです。ですからデリダにしろリクールにしろ、そしてマルセルにしろレブィナスにしろ、意識哲学から言語哲学への転換を選択せざるを得なかったと思います。誤解しないで欲しいのは、だからわたくしが彼らに従って言語哲学を受容するということではないということです。問題のあり方が進化したのです。私たちの問い方が変わったとも言えるでしょう。わたくしは東アジアで特に日・中・韓の人間たち―公民とか国民というよりは私人という立場から―がどうすれば互いに向きあい、ともに幸せになる世界を語りあえるか、そしてそこから国民国家という自己(中心の)世界の究極のあり方への執着から解放され、より実存的幸福の実現が可能になれるまったく別次元の世界―わたくしは相和と和解と共福の公共世界と称しています―を共に築くことができるかということを最大の課題にしているのです。ですから抽象論とも客観学とも事実学に偏向しているものとも違います。それは自他共創の生活世界であり、そのための自他共働の知・徳・行の連動変革であり、何よりもすぐれた意味の自他相生の哲学運動であります。

 武田さんの「民」に対する考え方もよく理解できます。わたくしもそのような角度から民主化を民生化―民富化―民福化という三次元相関的に捉えて「民が主人になる」ということは「民が主体的に生きる」ということであり、「民が身体的・心情的・精神的な富を築く」ということであり、「民が自己と他者の相関幸福を実感する」ようになるということであるという実践活動をしてきたのです。ですから今までメクラであり、ドレイであった「民」が主人として生命・生存・生業の真の主人=当事者=決定者であるという思考と行動と判断が何よりも大事であるとも考えています。
 しかしそれと同時に「民」という漢字の本来の意味とその使用例についてのきちんとした認識を通してそれがもたらす直接・間接の否定的影響を警戒する必要性も念頭に入れるべきです。例えば、官尊民卑とか官導民従とかいう発想や今日のいたるところで見られる官僚たちの民を無視する行態は、長い歴史を通して蓄積された「民」への心理的偏見が今もまだ存在するということではありあませんか。ですからその自覚が必要であるということを申し上げているだけです。

 わたくしは武田さんのおっしゃることを誠実に理解するための努力をしているつもりです。そして武田さんの立場・信念・行動を尊重します。ただわたくしは民族・文化・国境・宗教を異にする人間たちの対話と共働と開新をすすめて行くことに全力投入しているわけですから、意識哲学=主観性の哲学=考える哲学と同時に対話の哲学=共働の哲学=開新の哲学を語りあう哲学としてその必要性を強調せざるを得ないのです。これはまず理論=理念=パラダイムがあって、そこから現実をそこに合致させるのではなく、日々ぶつかる問題状況から哲学していくことなのです。わたくしはほとんど毎日そのような問題状況の中で生きていますから。わたくしの今までの経験から申せば、意識は純粋意識であれ、自(己)意識であれ、「誰々の内面」に収斂する傾向がありますし、また志向性(何々についての・何々に向かっての意識のはたらき)と言っても自己から他者へ向かう一方的な作用になるという限界を乗り越えられないと思うのです。わたくしは他者を理解するよりは他者を尊敬することが大事であると思うのです。他者は自己の理解を超える神秘―聖なる地平であると考えるところに他者の他者性の尊厳を重視する心構えが成立しますし、そこから真の人権思想も出てくると思うからです。
金泰昌

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金泰昌様 6月6日(二年前の今日は、全く未知の方だったキム・テチャンさんから始めてお電話があった日)
「主観性の知としての哲学」は、「意識主義」ではありません。

私もキムさんを「哲学する友」だと思っていますので、忌憚無く書きます。
かつての独我論論争についてですが、わたしが「問題の本質は不変だ」と言うのは、認識の原理論の次元では、という意味です。なお、何が不変で、何が異なるのか?は、当時の討論資料がありますので、必要ならば、それを参照して詳細に検討できますが、公平を期するためにも、高齢ながらまだご健在の竹内氏と今も活躍中の竹田氏にも参加してもらわなければなりませんし、何日もかかる大テーマです。

次に、「意識主義の立場」ということですが、私はもちろん、竹内氏や竹田氏も意識主義ではありません。それを乗り越えるために竹内氏は、意識(前意識や無意識を含む)の立体的把握のために言語の次元の相違に着目して「言語階層化論」を展開しましたし、竹田氏も形式論理の言語学を超えて、生きた現実言語の意味を捉える「言語本質論」を確立しました。両者とも、近代の意識主義と現代思想=ポストモダニズムの双方を超えるために努力を重ねています。

また、国民国家の問題及び共生の問題は、ずっと追及してきたことですので、キムさんの国家主義への批判は全く同感ですが、市民主権の民主制社会における国家の姿について更に考えを深めたいと思っています。

「民」についてもキムさんと相違はないようですが、繰り返しますと、わたしはすべて承知であえて「民」を使うのです。従来の伝統的価値を逆手に取り逆転させる(記号学的価値転倒)ことが、ダイナミックな変革のためにはどうしても必要―それが強い思想だ、というのがわたしの考えです。

なお、「意識の志向性」(ブレンターノの言葉を発展させたフッサールの概念)とは、認識の原理・本質論次元で出てくる概念であって、経験・具体レベルで「自己から他者へ向かう一方向な作用になる」という話を持ち出すのは、次元の違いを超越した見方でしかないと思います。

また、「理論=理念=パラダイムがあって、そこから現実をそこに合致させるのではなく、日々ぶつかる問題状況から哲学していくことなのです」は、わたしの人生そのものであり全く同感ですが、それと認識論の原理をしっかり踏まえるというのとは次元の違う話です。

その次の「意識哲学=主観性の哲学=考える哲学」という並列は意味がよく分かりません。「同時に対話の哲学=共働の哲学=開新の哲学を語り合う哲学の必要性」というのをなぜ対比させなければならないのか?わたしには疑問です。わたしの主張している「主観性の知としての哲学」とは、生きた有用な対話を可能にする哲学の原理であり、それらは一体のものなのですから。

 最後に、

「他者を尊敬することが大事」「他者は自己の理解を超える神秘―聖なる地平」「他者の他者性の尊厳を重視する心構え」というのには、異存はありませんが、哲学するとは、このような思想や理念がどのような条件の下で花咲くのか?を追求することではないでしょうか。よき理念を提示するだけでは、学校が掲げる目標と同じになってしまいますから。

わたしの「民知にまで徹底させた哲学」や「主観性の知としての哲学」とは、対話こそが哲学の命だとか忌憚のないご意見をといくら言われても、実際には、立場に縛られて自由対話ができない社会の現状を変えていくための考えなのです。他者の他者性の尊重や、生き生きと言い合い・聞き合いの自由闊達な対話や、共働や開新を可能にするためにはどうしたらよいかを考え、実践しているのであり、キムさんのお考えと異なるわけではありませんが、わたしはそれを阻む思考法・思想を批判し、どう考えればそれを実現できるかを探っているのです。それがわたしの哲学と実践=人生そのものなのです。(2007.6.6.)
武田康弘

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武田康弘様 2007年6月7日

日常の生活世界も理性の外部でないことの確認ができました。

 ご丁寧なご説明ありがとうございました。武田さんのお使いになっているいくつかの用語が、所謂現象学の立場を取っていないか、また、それとは反対の立場からものごとを考えている人々にとっては必ずしも自明ではないので確認しておきたかっただけです。わたくしの念頭の中のどこかにちょっとありました余計な懸念の雲が晴らされました。わたくしはいろんな側面で未熟なものですから、よく分からないところがいっぱいあると思います。特に日本ではほとんど常識的になっていることでもわたくしとしてはゼロから学ぶしかないわけですから。武田さんがご指摘なさったように、竹内さんや竹田さんにも何時か適当な時期に教えていただくチャンスがあれば幸いです。

 「意識主義の立場」のことも一般的には意識哲学としての現象学は無意識に対応できないと理解されていますし、そのような批判を激しく展開している方々が日本にもいらっしゃいます。ですから武田さんとわたくしの立場は、前意識や無意識も含めて理性の外部として排除されてきた日常の生活世界における、一人ひとりの具体的・実存的私人たちの身体感覚までも立体的=相関的に捉えるということを確認しておく必要があったからです。わたくしはまったく無名の人間ですから、事前の予解事項として素直に受け入れてくれるかどうか定かではないでしょう。わたくしは、所謂理性主義的観念論者だとか認識・理念・パラダイム原理主義者ではないかというような批判・誤解も受けたことがありましたので、武田さんとわたくしの対話にまでそのような雑音が生じることを防止するためであったのです。武田さんがどうだというよりは、自己警戒の意味が強いものなのです。

 武田さんのおっしゃる「記号学的価値転換」は大変重要かつ有効な対話と共働と開新の哲学の基軸の一つであります。ですからあえて、「民」という漢字を使いつづける武田さんのご意向を十分理解します。わたくしが「民」とともに「私人」ということばを使うことのわたくしの意図も分かっていただければありがたいと申し上げただけです。

 「意識哲学=主観性の哲学=考える哲学」という並列はオクスフォードとケンブリッジでの公共哲学フォーラムで特に将来世代と現在世代の相互関係に関する激論の最中に出てきた反デカルト主義の一人のイギリス人哲学者の発言にあったものです。そこでわたくしが公共哲学はデカルト―ヘーゲル―カントに代表される理性中心の思考・意識に偏向した大陸観念論とは基本的な発想がちがうということと、むしろスコットランド啓蒙主義に似ているところがあると反論したことがあります。ですからあえて言えば、経験論・道徳感情・実践知を重視する哲学運動であると説明したときから時々使うようになった言い方です。武田さんのお考えにそぐわないところがありましたらそのような事情から生じた立場表明の一つにすぎないということをどうかご理解をお願いします。

 武田さんが“「最後に」でおっしゃったように「思想や理念がどのような条件の下で花咲くのか?を追求する」”哲学を私たち二人で語りあいたいと思っているわけです。それを阻むものを批判し、その実現方法を探る哲学とは、はたしてどのようなものなのかと。ただ今まで生きてきた世界とそこで体験した事柄とそれに基づいて形成された自己了解と世界認識がちがうところもあるでしょうから相互理解がすぐ成り立たない場合も多々ありえますね。しかしそれはそれで意味があると考えられるのではありませんか。

 わたくしは、武田さんの考えていらっしゃる公共性というのを知りたいのです。何回かお書きになったことを読みましたが改めて武田さんのご意見をお聞きしたいのです。
金泰昌

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金泰昌様 6月8日

基本合意が得られましたので、公共に開きましょう。

キムさんのお返事、基本的に了解しました。
「武田さんとわたくしの立場は、前意識や無意識も含めて理性の外部として排除されてきた日常の生活世界における、一人ひとりの具体的・実存的私人たちの身体感覚までも立体的=相関的に捉えるということ」の確認がしっかり取れ、深く合意に達したことは、大変よろこばしいことです。

なお、竹内氏や竹田氏の極めて優れた業績は、日本の学者〈学会〉の中でも知っている人は少数で、「常識」にはなっていません。多くの学者は、現象学に対する理解も古い常識に縛られたままです。わたしは、竹内氏は旧世代の最良の読解者であり、竹田氏は竹田現象学とでも呼ぶべき新たな地平を切り開いた人物で、本質論次元でみれば、欧米の哲学界を超える仕事をしていると思います。

また、「公共哲学はデカルト―ヘーゲル―カントに代表される理性中心の思考・意識に偏向した大陸観念論とは基本的な発想がちがうということと、むしろスコットランド啓蒙主義に似ているところがある」との見解に対しては、わたしは、再検討が必要だと思いますが、今はこの議論は保留とさせて下さい。

それでは、
【武田さんが“「最後に」でおっしゃったように「思想や理念がどのような条件の下で花咲くのか?を追求する」”哲学を私たち二人で語りあいたいと思っているわけです。それを阻むものを批判し、その実現方法を探る哲学とは、はたしてどのようなものなのかと。】
という基本合意が得られましたので、いったんここで対話を休止し、これまでの成果を公共に開きたいと思います。読者の皆様の反応を待って、続きを再開致しましょう。

武田康弘

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武田康弘様 2007年6月8日

二人の対話を公共時空へ。

 今朝、武田さんのメッセージをいただいて読みました。それで今までの対話の進み具合が整理されたと思います。
 わたくしも、ここでわたくしたちの対話を二人の間に閉じておくのではなく、他の人々にも開いて多様な意見が交じりあう公共時空にしたいと思います。
 武田さんの部分だけではなく、わたくしのものも含めてより見やすく、読みやすくするための工夫をお願いします。わたくしは古い人間で恥ずかしいことにコンピューターを自由に使いこなせないのです。
金泰昌




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