わたし(武田)が昔から繰り返し主張している物事・意識の「立体視」のためには、次元の違いを自覚することが必要ですので、シリーズ「次元の違いの自覚」を始めます。今日はその第1回目です。
大元に戻して考える営み=原理的思考ができるように努力すること、これは哲学の命です。意識を透明にする練習は、哲学することの基盤で、そこから原理的思考が生まれます。
(ただし実際には、自分のはじめの直観に拘り、また感情に縛られて、自分の思いを絶対化するような思考法になりがちです。そのように自我を閉ざして「主義」に陥れば、哲学は死んでしまうのですが。)
しかし、なにか新たな建設・計画・事業・運動・改革をはじめようとする場合は、関係者が、うーんと感心して唸るようなよき目標・理念を創り出す作業が不可欠です。その作業は、原理的に考えるのとは頭の使い方が異なりますが、これもまた哲学の重要な仕事です。理念の創出のためには、大元に戻して考えてみる作業が不可欠ですが、それだけでは不十分で、強い意欲―パトスー創造力が必要です。頭脳の働かせ方の向きが逆なのです。透明な原理的思考は、よき創造にとって有用ではありますが、それと理念の創造とは直結しません。
現実の社会問題についての総合判断、及びそれにどのように関わるかを思考するのは、
上記に近い頭の使い方が必要です。それは勉強や研究の領域ではなく、実践的思考の領域なのです。このように同じく考えるー哲学すると言っても、大きな違いがあるので、一人の、あるいは一つの能力でまかなえるものではありません。この点をよく自覚しておかないと思わぬ悲喜劇が起きてしまいます。くれぐれも用心したいものです。
武田康弘