思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

武田康弘ー「ほんらいの哲学・対話は、生活世界という共通項の中でするもの」

2007-06-23 | 恋知(哲学)

恋知対話・2-5(通算21)

金泰昌様 2007年6月22日 武田康弘
【ほんらいの哲学・対話は、生活世界という共通項の中でするもの】


「思い」は、キムさんとほとんど一緒という感じです。

なにかの専門家である人もみな生活者という地平では同じです。学的世界をその一部として包む生活世界をそれ自身として考察するのは、さまざまな立場・職業を超えて最も重要な営みだ、と思っています。
わたしは、このことは昔から繰り返し主張し、実践していますが、今年1月18日のブログ・思索の日記には、『皆に共通する立場は、ひとつだけあります』を書きました。

例えば、官僚の立場で考える、学者の立場で考える、技術者の立場で考える・・・・
ということでは、普遍了解性は得られません。学者の常識に基づいて考えれば、学者仲間には通じますし、技術者にしても、官僚にしても、その社会の通念で考え・語れば、それぞれの世界の住人には通じるでしょうが、ふつうの多くの人の共通了解は得られません。
「集団オタク」の世界から抜けられずに、【独我論】の世界に陥るしかありません。
 では、どうしたらよいか?皆に共通する立場に立つことです。それ以外の答えはありません。では、皆に共通する立場とは何か?【生活世界の現場】から考え・話し・行為することです。どのような立場の人にも共通するのが生活世界です。生活世界を持たない人はいないのですから。生活世界から立ち上げて、生活世界で通用するような言葉、生活世界に受け入れられるような態度で語り、行為することです。
 何かを語り、何かをなそうとする時、この原理中の原理をよく自覚し、実践することがまず何よりも先に求められます。この原理を無視する歪んだ「エリート」意識に囚われていると、何を考え、何を語り、何をしても、空しい独我論の世界から抜けられません。
 たとえ、言葉・思想として独我論や自我主義を批判しても、それを語る人間の【語る言葉や態度】が上記したそれぞれの世界の枠内のものであれば、つまるところオタクに過ぎず、普遍了解性は得られないはずです。
 人間や社会の問題について考え、解決し、よい人生を生むためになにより必要な「対話」は、生活世界という共通項の中でするほかありません。このことの深い自覚があれば、対話・討論は驚くほどの成果を生むはずです。
 多くのふつうの人々の「私」から発する公共性を担保するのが、ほんらいの公共哲学です。けだし、公共性とは、ふつうの市民を主体者にしなければ成立しない概念なのですから。キーワードは、生活世界です。(2007年1月18日・武田・一部カット)

生活世界の立場から「哲学を民主化することが今日の課題である」ことは、まったくその通りだと思っています。哲学の専門家になるのではなく、哲学する(公共哲学する)ことには深く大きなエロースがあるのですから。まさに哲学は、その語源通りに「恋知」です。そこでこの金・武田の往復書簡もその名を「恋知対話」というわけです(笑)。
「哲学(恋知)が切り拓く世界に希望をもつ」、というキムさんのお考えは、わたしと全く同じですね。わたしがそう考えてドンキ・ホーテのごとく小さな私塾を立ち上げたのが24才の時ですが、はやいものでもう31年が経ちました。ようやく助走期間がおわったかな、という感じです。これからが本番。



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