思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

金泰昌・武田康弘の恋知対話ー2

2007-06-11 | 恋知(哲学)

金泰昌様 2007年5月16日

なぜ日本では「私」が肯定されないのか?へのお応え

観想に過ぎない受動性の哲学ではなく、当事者としての能動性の哲学を、優れた「異邦人」であるキムさんと共に行うことに、私は深いよろこびを覚えます。「裸の個人」同士としての自由対話を存分に「楽しみ」たいと思います。

まず、【「私」は、なぜ否定されなければならなかったのか。「私」を肯定すると何がまずいのか。】というキムさんのご質問に応答致します。

この問題は、31年前、わたしが日本において新しい教育の必要を痛感して、独力で「塾」を開いた理由と重なります。

自分の頭を悩ませて考えること、「私」に深い納得が来るように知ること、という意味論としての学習ではなく、パターンを身につけるだけの「事実学」が支配する日本の教育は、最も反・哲学的であり、効率だけを追う教育は、人間を昆虫化させてしまう、と当時から私は考えていました。日本においては、上位者に従い、主観性を消去すること=「私」の否定、徹底した否定が「優秀者」を生む、というわけですが、人間が人間をやめない限り、ほんとうに「私」を否定することはできませんから、必ずおぞましい自他への攻撃か自閉に陥ります。個人性を豊かに開花させる哲学が育っていないために、人間愛・関係性のよろこびを広げられない情緒オンチの形式人間が増え、それが幸福を奪います。

いま(5月16日)国会での党首討論を見ていましたが、安倍首相は、声を張り上げて、「金や物の価値だけになった現状を変えていくいために、家族・地域・国を愛する態度を養うという目標を持った教育を行う必要がある。そのために『教育基本法』を制定したが、これは戦後レジームからの脱却を意味する」と述べていました。

これは、「私」(実存)からの出発という哲学原理の否定ですが、家族・地域・国を先立てるイデオロギーによって背後に隠されてしまった自我は、深いエゴイズムに陥ります。「私」の欲望をよく見つめることで「私」を活かそうとする努力のみが自我主義からの脱却を可能にするのですが、「私」を越えた概念をつくり、それに従わせるという思想は、自我の不完全燃焼を起こし、自他に有害な言動を生みます。個人の頭と心の自立・主観性の深まりと広がりを育てる教育がなければ、上意下達のエリート支配に行き着くしかありません。ついでに言えば、「家族・地域・国を」と言い、「私」と「世界」が抜け落ちているのは、致命的な欠陥です。

この底なしの不幸から脱却するためには、「私」を深く肯定できる哲学による新たな教育が必要であり、そのための思想の創造と教育の実践に一生を賭けよう!子どもたちと共によろこびの多い人生を切り開こう!大きな困難が伴うことは端(はな)から承知だが、それこそが私が生きるに値する仕事だ、そう思って、独自の「塾」を始めたのが31年前のことです。それが発展して、いまは小学1年生から大学生、さらに成人者の「白樺フィロソフイー」には76才の方までが通う『白樺教育館』になったわけです。

では、いよいよ「私」は、なぜ否定されねばならなかったのか?についてですが、
わたしは、戦国時代末期以降の「封建制社会」における「上位者へ従うことがよく生きること」という道徳、及び島国・鎖国による閉じた世界が生んだ「様式主義の型の文化」の上に、明治の富国強兵のために西洋から「客観学」として輸入された学問体系が乗ることで、「私」の私性は、その根付く場所を失ってしまったのだと考えています。

西洋の学問体系の土台といなっているのはいうまでもなく哲学ですが、思想や哲学においては、いわゆる「正解」は無く、あるのは、有用で・豊かで・魅力ある「考え方」だ、という原理が知られずに、「真理として輸入された哲学」を東京大学の権威と共に学ぶ・暗記するという「官学=権威学」に陥ってしまったのです。人々の生活世界の問題を改善し、生を豊かにするための学問(その中心は哲学)は、反転して人々を管理し、権威に従わせるための道具にまで成り下がってしまった、といわけです。ひとりひとりの主観を豊かに育む「主観性の知」としての哲学までもが「客観学」化され、現代に至っています。

もちろん、中江兆民や植木枝盛など本来の知のありように忠実な優れた先達も数多くいて、彼らは「自由民権運動」を起こしましたが、明治の超保守主義者で「天皇教」による国家運営を行った山県有朋らによって徹底的に弾圧され、なきものにされました。明治政府は、1890年代(明治半ば)以降は、「国民教化」という名で、天皇現人神(てんのうあらひとがみ)の思想を「天皇史としての日本史」と共に小学生に教え込み、同時に、古来の「神道」の内容を大きく変え、新宗教―「神道の国家化」も完成させました。その総本山が『靖国神社』(明治2年に天皇のために斃れた人を祀る『東京招魂社』として政府がつくった施設を10年後に「神社」と改称)です。この明治の近代天皇制という「集団同調主義」に対する哲学次元における明晰な批判がなされて来なかったために、第二次世界大戦後の日本もなお、哲学の原理である「私」という実存からの出発=主観性を掘り進める営みがなく、歪んだ客観学である受験知に支配されてしまうのだと考えています。

詳しく論じればきりがありませんが、結論を言えば、国家の宗教的な最高権威者に天皇を据え、かつこれを主権者にした全体主義的な体制にとって、市民がそれぞれの感じ思うところにつき、考えをつくり述べるということは、極めて都合の悪いことであるがゆえに、「主観」とは悪であるかのような想念を学校教育によって徹底させた、ということでしょう。そのために従来の「様式主義の型の文化」の上に、新たに輸入した西洋学問の大元である哲学を「客観学」化させて結合し、ほんらい主観性の知である哲学からその魂を奪った、それが意匠を変えながら生き続けている、私はそう見ています。

「私」を肯定すると何がまずいのか? についても、以上の考察でご理解頂けるのではないでしょうか。答えの決まっている勉強・学問だけがあり、ひとりひとりの主観性を豊かに育て鍛える教育がない国においては、集団同調による同一の価値観が支配してしまいます。右派左派を問わず、「私」という主観を肯定し、そこから始めることは、予め定めた方針でものごとを進めるのにマイナスになると考えるのです。「違い」があるから考えは強く大きくなり、多彩な世界が開けるのだ、という自由対話に基づく思想の広がりと、それによる物事の決定という実体験がない世界で生きれば、「違い」=異論・反論とは非生産的なものであり、秩序を壊す悪いものとしか感じらません。「私」とは排除すべきもの、和を乱すものとなってしまいます。

相手の揚げ足取りと自我拡張の論争しか知らず、対話する愉悦や生産的討論の有用さを知らなければ、人間愛―関係性を広げ深めることのよろこびとは無縁な場所で生きる他なくなります。異があるから面白い、異があるから始めて和が生じるということは、「私」という中心をしっかりもった立体の世界を生きなければ分からないはずです。赤裸々な「私」から始めなければ、全ては砂上の楼閣だ、私はキムさんと共にそう考えています。

以上がお応えですが、いかがでしょうか?

武田康弘

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武田康弘様 2007年5月21日

お聞きしたいことが三点ありますー「公」と「私」

 早速お聞きしたいことが三点あります。
 “まず第一点ですが「事実学」が支配する日本の教育は、最も反・哲学的であり、効率だけを追う教育は、人間を昆虫化させてしまう”ということですが、反・哲学的な教育が日本の社会風土と文化特徴を反・哲学にしているのか、それとも反・哲学的な社会風土と文化特徴が教育を反・哲学的にしているのか、また相互強化的なのか、どう考えたらよろしいでしょうか。多数の日本人の学者や言論人たちの書いたものを読んだり、また直接お会いして聞いたりしたことですが、日本人は元来哲学や思想が嫌いで物を創ることや実際経験したりすることを大事にするのが、その特性ということです。それが日本人のよさであり、日本文化のすぐれた面であると言われたこともあります。私が1990年来日以来、日常生活を通して皮膚感覚的に実感したことも抽象的なことに対する否定的な対応ですね。抽象思考を嫌うという傾向です。ですから、誰々の思想の研究はいろんなものがありますが、自分の脳と心と身で練り上げた哲学―本当に哲学すること―への意思と願望と忍耐の生生しい力働を分有・共感・共鳴できるものが少ないという意味で非・哲学的な環境であると言えますね。しかし、わたくしの感覚が間違っているのかも知れませんから、武田さんのご意見を伺いたいのです。

 第二点は日本で「私」(事・心・欲・利・益)が否定されなければならなかったのは戦国時代末期の「封建社会」における「上位者へ従うことがよく生きること」という道徳と、明治の富国強兵のために西洋から「客観学」として輸入された学問体系が乗ることで、「私」の私性は、その根付く場所を失ってしまったからだと考えているということでしたが、わたくしが知りたいのは、「上位者へ従う」というとき、上位者の「何」に従うということなのかということです。それは上位者の「私」(事・心・欲・利・益)ですか。それとも上位者が声高く唱える「公」(事・心・益)ですか。上位者への忠誠は「滅私奉公」という言い方で美化奨励されましたし、下位者の「私」は上位者の「公」のために徹底的に抑圧・排除・犠牲になりましたが、その「公」というのは上位者自身の滅私・破私・無私によるものであったと言えるものでしたか。

 そして第三点です。一人ひとりの主観性を豊かに育て鍛える教育がない国においては、集団同調による同一の価値が支配してしまうということと、その前に国家の宗教的最高権威者に天皇を据え、かつこれを主権者にした全體主義的な体制にとって、「主観」とは悪であるかのような想念を学校教育によって徹底させたとおっしゃったことに関係するのですが、それをわたくしの言い方に変えますと、一人ひとりの「私」(事・心・欲・利・益)をまったく認めない、すべてが「公」で「公」以外には「主観」という悪しか存在しない体制こそ全體主義体制であり、すべての「公」が天皇によって象徴される滅私・破私・無私の体制は天皇制的全體主義体制以外になにものでもないということになりますが、このような理解でよろしいでしょうか。わたくしは、所謂全體主義に関する多様な定義・規定があるということを十分承知したうえで、あえて申しますが、一つの「公」―それが実体として何であれ―がありとあらゆる「私」を全否定する体制・装置・仕組・思想・イデオロギーは全體主義的であると思うのです。武田さんのお考えはどうですか。

金泰昌

続く



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連載:『恋知の対話』ー金泰昌(キムテチャン)・武田康弘

2007-06-10 | 恋知(哲学)

今日から、金泰昌さんと武田康弘の恋知(哲学)対話を連載しますので、ご意見ご感想をぜひコメント欄およびメールにてお寄せ下さい)

【第1回】

金泰昌様 2007年5月10日

キムさんからのお申し出で、はじめの問題提起です。

わたしは、「哲学するってどういうことかな?」と考えて、40年以上の月日がたちましたが、それは、ただ書斎の中で本を読むこととは違い、自分にとって切実な人生問題や社会問題にぶつかることで始めて生きて動くようなもの、と思うに至りました。

ひとつの論理で追うのではなく、複眼的にものを見るのが哲学することですが、そのためには、さまざまに「対立」する世界を生きてみることが条件になるのではないでしょうか。いくつもの論理があるとき、それを平面に並べて比較してみてもダメで、立体としてつかむことが必要ですが、この立体視は、現実問題とぶつかり、その解決のために苦闘するところから生まれるようです。

書物の勉強は思考の訓練として重要ですが、それだけを積み重ねても、意識・事象を立体として把握することは難しいと思います。ただ知識を増やし、演繹を延ばすに留まり、自己という中心をしっかりともった立体世界がつくれないからです。

そうなると、哲学はいろいろな哲学説を情報として整理すること、という酷い話になってしまいますが、ここからの脱出は容易ではありません。それは、日本では幼い頃から、正解の決まっている「客観学」だけをやらされ「主観性の知」の育成がなされないからですが、いわゆる成績優秀者ほどこの弊害がひどく、しかも「優秀」であるゆえにこれが自覚されずに、かえって平面の知を緻密化している自分を他に優越する者と誤認しがちです。

こういう世界で生きると、人はみな実務的領域だけに閉じ込められ、ロマンと理念を育む立体的な生を開けず、即物的な価値に支配された平面的な存在に陥ってしまうのではないでしょうか?

キムさんは、どうお考えですか?

武田康弘

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武田康弘様 2007年5月15日

朝起きてから夜寝るまでー哲学を楽しむ。

 先日は最初の問題提起をいただきましてありがたく存じます。

 武田さんのお陰で生活と哲学のことを改めて考えてみたくなりました。わたくしは現在まったくの一私人として日本で生活しております。そして、現在のわたくしにとっては哲学するということが即ち生きているということです。朝起きて夜寝るまでのわたくしの生活と言えば、その目的も過程も手段もひたすら哲学することだけです。問題意識を共有する友人たちとともに「日本を哲学する」ことです。わたくしが日本で暮らしを続けているのは金儲けのためでも、宗教の伝道のためでも、情報活動のためでもありません。どんな公職も公的地位もありません。100%私的な身分です。一私民です。日本国籍者ではないから、日本国民でもありません。ですから、わたくしの生活はまったく私的な生計によって成り立っています。そしてわたくしの活動はもっぱらわたくしの私的生活にその源泉があるわけです。ということはわたくしの思考と判断と行為と責任が、一切の職務や地位に拘束されたり、影響されることのない、自由な一私人・生活者・市民の立場から構成されるということを意味します。そのような立場から国家と市場と市民社会との関係をその大元から改めて考えることが必要になってきます。一人の異邦人として生きていくということは、日本人として生きていくというのとは違うでしょう。ですから、異邦人として生きていくことの実存的・人格的・制度的意味を深く考えざるを得ません。そこには当然、挫折があり立腹があり悲哀があり落胆があります。かと思えば、また意外な発見があり、予想外の出来事があり、かけがえのない歓喜があります。勿論、日本人が日本で生活する場合もほとんど同じではないかと反論されるかもしれません。おそらくそういう側面もあるだろうとわたくしも推測します。しかし、どこまでが共通し、どこがどう相違なるのかを確認してみたいという欲望をわたくしはどうしても放棄できないのです。この数年間、わたくしが考え悩み日本と中国と韓国の友人たちと対話を通して、共働探究してきた切実な問題の一つは果たして「私」(事・益・利・欲・心)が抑圧・否定・排除するべき悪なのか、それとも賢明に調整・管理・活用すべき力働なのかということです。「私」は何故、否定されなければならなかったのか。「私」を肯定すると何がまずいのか。わたくしにとってはどうでもよい問題ではないのです。ほっておけないのです。ですから哲学するのです。武田さんはどうお考えですか。

 わたくしの妻は時々わたくしが哲学することに凝りすぎて、気が狂ったのではないかと言います。わたくし自身も呆れ返ることがまれではありません。よりによって日本で哲学することが暮らしの目指しであり、成り行きであり、手立てであるなんて、よほど変わり者の頑固一徹ではないかと言われています。わたくしはいままでの人生の中で40年間は主に国立大学や国立の研究所で政治哲学・社会哲学・国際関係哲学・環境哲学などをそれぞれの分野の専門学者たちから教えてもらったり、また、学生たちを教えたりするなかで、すごしました。それも韓国と日本を含めていろんな国々のいろんなところで。しかし、そこで教えてもらったり、教えたりしたのは例えばソクラテスとかプラトンの哲学であったり、孔子や、孟子の思想でありました。そして、彼らについての文献学であり、事実学であり、客観学でもありました。そこにはわたくしの生活に根付いたわたくしにとっての切実な問題―私的・公的・公共的問題群―をわたくしの頭で考えわたくしの心で悩み苦しみ痛み喜び、わたくしの手足で実践活動するということはなかったのです。哲学の観客というか、傍観者の哲学といいましょうか。そこには哲学の当事者、人格的生命体としてのわたくしの哲学はありませんでした。

 わたくしは情報知の量的増加とその頭脳内蓄積が哲学とは思いません。哲学者の名前をたくさん覚え、書籍のタイトルを知り、学説の内容を解説することも哲学教育とそれにつながる哲学研究の一部ではあると思います。しかし、わたくしが現在、重視しているのは他者とともに哲学するということです。わたくし一人で考える哲学ではなく、他者とともに考え、そして語りあう哲学です。わたくしにとって何よりも誰よりも気になる他者はいまのところ日本であり、日本人であります。それは実は一番近いところにいる隣国・隣人なのに一番無知であり、無感覚であり、無関心であったという反省があるからです。反日・憎日・克日がいつのまにか避日・棄日・無日―日本なんてどこにあるの?―になってしまったとも言えるでしょう。わたくしがそうであったということは、日本人もそうであっただろうと考えられるわけです。ですから、お互い様です。互いに他者同士が他者を哲学するということが苦痛になるのか、喜楽になるのかわかりません。しかし、少なくともわたくしの方は心構えが出来ています。「(ともに哲学することを)知る者はそれを好む者には及ばないものであり、それを好む者は、それを楽しむものには及ばないものである」という孔子のお勧めを武田さんとの対話を通して実証したいのですがどうでしょうか。

金泰昌
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
明日に続く。

金泰昌さんについては、クリック





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軍事力で市民を支配!?「自衛隊」の市民活動監視

2007-06-09 | 社会思想

一昨日の東京新聞一面に、自衛隊の驚くべき活動が紹介されていました。

自衛隊がイラク派遣に反対したり、年金改革や消費税増額に反対する個人と市民団体をリストアップし、それぞれの運動を「民主党系」「共産党系」などと色分けし、個人が送ったはがきや顔写真なども記録していたというのです。陸上自衛隊の情報保全隊の内部文書を共産党が公表してこの【悪事】が明かされました。

新聞には、【戦前の特高警察を想起させる情報収集活動】と書かれていますが、復古主義・国家主義の思想による教育基本法の改定が終わり、次は憲法の改定を掲げる新ウヨク政権にふさわしい軍事力による国民監視です。われわれの税金を使ってこういう活動をしているとは、陸上自衛隊とは言語に絶する組織ですね。確かに軍隊とは、国民を守るのではなく、政権与党=権力者を守るのが仕事なのだということがよく分かります。

どうやら「美しい国」とは、政権党支持者以外はみんな敵という国でしかないようです。戦前の「非国民」という思想ですね。【非国民排除の美しい国】!?思考回路の単純な人間は、異論・反論を嫌います。民主主義などカタチだけにして、全体一致の体制をつくりたいのが彼らの本音のようですが、こういう政治は、市民の【個人としてのパワーと能力】を下げることで、国としての力を元から無くしていきます。愚かなことです。





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自殺と他殺は同じことーどちらもヒドイ暴力です。

2007-06-07 | 私の信条

自殺を「武士の心だ」、と賞賛した愚かな政治家がいますが、自殺も他殺も紙一重の違いで、一つメダルの裏表でしかありません。
どちらも私の自我が「命」を断つという酷い暴力行為であり、許されるものではありません。
生きて在ることの深い価値を知らないのは、本人が不幸であるだけでなく、社会にとって何よりも大きなマイナスです。外的な価値に縛られずにていねいに生きること、その生の基本形がなければ、全ては砂上の楼閣でしかありません。みなを不幸にします。

武田康弘

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ほんとうの人生とは?

2007-06-04 | 恋知(哲学)

下のブログに、「自分の心が、美しくよい世界への憧れで満たされていなければ、・・」と書きましたが、それを受けて言えば、ほんとうの人生とは、〈よい・美しい〉への憧れの心を何よりも大切にし、自分のロマンや理念の中身を少しずつ成長させていく生き方だ、と言えます。

いまのテレビが宣伝する、派手なもの・これみよがしなもの・ただ高価なものを、という浮ついた価値の世界と、〈知・歴・財〉の外的な価値に幻惑・支配されて右往左往する心から自由にならないと、ほんとうの人生は始まりませんが、現代の文化・文明は、〈よい・美しい〉世界への憧れ心を消して、即物的な価値に縛られた人間をつくっているようです。

型を優先する様式主義、序列意識に支配された心は、うわべだけを綺麗に整えた底の浅い文化しか生みませんが、これは、人々の普段の生活にエロースが乏しいために生じる不幸です。外的価値のみを追うような人生を歩まされている人は、内的な悦びの世界とは無縁で、そのために、これみよがしのウソ・虚飾の世界に幻惑されるしかないのでしょう。しかし、意地の張り合いのつまらぬ人生を歩めば、酷い外的人間に陥るか、いつも精神疾患と共に生きるか、そのどちらかしかなくなります。

もう一度、ほんとうの人生とは、
〈よい・美しい〉への憧れの心を何よりも大切にし、自分のロマンや理念の中身を少しずつ成長させていく生き方だ、と言えます。

武田康弘





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エゴイズムを越える条件は、自分を愛し、大事にすること。

2007-06-01 | 日記

エゴイズムや独我論を越えるための条件は、自分の心と体と頭を愛し、大事にすることです。
他者への愛は、自分を愛する心からしか生じません。
自己を粗末にする人、ていねいに扱わない人は、真に他者を尊重することもありません。人と、その人の身の回りの様子をみると、どれほどの愛をもった人かが分かります。
その人の「言う事」を聞いてもほんとうのことは分かりません。
実際の態度を観察してはじめて分かるのです。

自分を愛し、大事にしている人でなければ、他者をほんとうに気遣うこともできるはずがありません。自我と他我は深いところでは結び付いているからです。
自分の心が、美しくよい世界への憧れで満たされていなければ、他者への優しさや世界をよくしようという意志が芽生えるはずがありません。
自分を愛し、いたわらない人の思想は、ウソです。

心を透明に保つ努力、頭を鍛える努力、体を健やかにする努力で、自分自身をよい状態に保つこと、自分をていねいに生きることが、エゴイズムによる行動や独我論の思想から自己を解放し、他者と共に生きる広々とした世界―魅力ある人生をもたらすのです。

したがって、教育において何より大事なことは、かつて志賀直哉が強調したように、子どもが自分を大切にし、愛することができるようにすることです。
幼い頃から人はふつう誰でも、人や動物や物に興味を示し、愛しますが、その心を周囲の大人から大切なものとして扱われることで、子どもは、自分自身を愛せるようになります。教育で一番大事な点は、子どもがほんとうに自分を愛せるように配慮することです。
それがなければ、他者愛は、命令や要請による形式愛という欺瞞にしかなりません。当たり前のことですが、愛は強制によっては生じませんから。

私の心身が感じ知る世界は「他者」ー自分の外にある様々な世界です。それらが私の意識の内実なのですから、私の意識に就き、それらをよく見、味わい、愛することは、他者を受容し愛することと結びついているのです。
エゴイズムや独我論は、意識が外なる価値に支配されて、自己の正直な意識につくことに失敗した不幸な観念で、人間からエロースを奪ってしまいます。

武田康弘



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