山本直樹氏の『レッド』5巻を読む。連合赤軍の話。第3巻に紙屋高雪が解説で書いていたように思うが、新左翼運動は、大学生の増加──大衆化した大学生がアイデンティティを求めたことに一つの原因があったような気がする。孤立したインテリゲンチャの抵抗という感じがしないのだ。永田洋子の著作を読んでもそうおもう。我々の社会の陥りつつある心の問題に馬鹿正直に反応してしまったという感じなのだ。もうさんざ言われていることで、私が言うほどのことでもないけれども、連合赤軍──オウム真理教──エヴァンゲリオン(笑)、……とってもよく似ているテーマを扱っている人達である。みんなで一つに、は可能か、という、──はっきり言わせて頂ければ、小学生から中学生まででそんな幼稚な問題は無効であると悟らなければいけないテーマである。
震災後にいろいろといままでの問題が噴出してきているが、一方で、あなた方とともにいますっ(きりっ)とか、絶対復興しようとか、みんなで一つになってなんとか、とか、元気をとどけたい、とか、──言いたいことは分からんでもないが、どうも更に日本人をガキ扱いしているようで、もうちょっと言い方はないのであろうか?戦後復興の時も、一億総懺悔とか、みんなで復興とか、こんな言葉は、完全に、戦前を反省したくないことの裏返しだったではないか。今回もまた同じか……。また某東京都知事がどさくさに紛れて「同胞の痛みを分かち合うことで初めて連帯感が出来てくる」とか、「戦争の時はみんな自分を抑え、こらえた。戦には敗れたが、あの時の日本人の連帯感は美しい」とか、直接聞いた訳ではないが、記者会見で言っていたという。戦争中、まだたいした歳でもなかったやつが何を言っておるかという感じである。私も、連帯感というのは、確かに悲惨なことを共有しているときに出てくると思う。だから、わたしは、国語研究室の団結のためにも、学生に、悲惨なほどきつい課題を与えている。ただ仲良くしようとした場合には、必然的に仲間はずれをしながらの連帯になる。決まってバカが威張るからである。こういうやつには勉強で恥をかかせるしかない(笑)。いやほんとに。
案外善人面の赤軍の人が、脱走した同志に対して、「なんで出ていくんだよ 一緒にやっていこうよ!」と言うのだが、そのとき彼は、相手の顔を潰れるほど殴りつけていたのだった。連帯感は暴力と一体である。のみならず、我々は何かを忘れるために、何かを覆い隠すために、「みんなで」を持ち出す傾向があるように思う。