★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

アリス錯乱

2011-04-24 21:55:43 | 映画


穴に入る話としてやはり「不思議の国のアリス」は欠かせない。西原理恵子が以前「アリス最悪」と言っていたので、観てなかったのだが、今日、ティム・バートンの「アリス・イン・ワンダーランド」をやっとこさ観た。

この映画は、少女アリスの13年後の後日談である。すっかりいい女になって結婚させられそうになっているアリス。現実逃避して穴に落ちると、体重が増えているせいか(←違う)物凄いスピードで落下する。ワンダーランド(実はガキ時代の聞き違いで本当は「アンダーランド」らしい……)に着いてみても、「こいつは別人アリスだ」とか兎や猫やら芋虫に言われてもうどうしようもない。しかし、この夢は私のものよ私が自分で決めるわ、と身も蓋もないことを言いだし、……えっとなんか理由があったかも知れないのだが、途中で半睡状態になってしまったので覚えていないのであるが……、所作が気持ち悪い白い女王の方に肩入れして、顔が大きい暴君・赤の女王の方のペットである怪物を、なぜか赤の女王の口まねをして「あんたは打ち首よっ」と殺してしまう。こうして芋虫の言う昔の「強さ」(←そもそもそんなのあったか?)を取り戻したアリスは現実に戻る。そして、婚約者を「胃が弱そうだから」と結婚を断り、中年になっても王子様を待っているおばさんに「王子様はいないわよ。医者に診てもらえ」とか現実を突きつけ、私は父のやっていたことをひきつぐわということで、インドシナ?との貿易はぬるいわよ、中国まで行きましょうよ香港がいいわよ、と大海原にのりだしていくのであった。そして香港を占領。帝国主義の時代のジャンヌダルクとしてアリスは暴れ回るのであった。たしかに、亡き父親が少女時代にアリスに言ったように「おまえ(アリス)は完全に頭がおかしい。しかし大物というのは、みんなそうなんだ」である。ワンダーランドの人達も現実の人々もそうだが、善でも悪でもありかわいくもあり気持ち悪くもある。そんな中で決断を行ったアリスは、現実逃避としてではなく、実現につながる夢を見る意志のつよさを獲得し、虚飾を嫌う女へと変貌する。しかしそんな人間がそれから何をやらかすかは分からない。

なんだ、けっこう面白いではないか。あからさまに貴族批判と女性の社会進出と帝国主義?と、少々おかしい夢を見るやつこそが大物であるというイデオロギーと、大人になる決断という成長物語、などが重ねられているので、びっくりしちゃったよ。それらが肯定的に描かれているのか、否定的に描かれているのか、そこんとこがあんまりよく分からないから、ファンタジーなのか、批評なのか分からないわけだ。が、たしかに、そんな簡単には19世紀のイギリスを善悪に分けて判断するわけにはいかん。この映画はその意味でわりと正直なのではなかろうか。「アリス・イン・ワンダーランド」と「パンズ・ラビリンス」が違うのは、前者が攻めていく方の錯乱を描いたのに対し、後者が攻められた方の錯乱を描いている点であろう。西原理恵子は、たぶん、前者を断じて錯乱とは認めないだけなのである。それはそれで立派である。

長いトンネルへの飛翔

2011-04-24 01:38:44 | 文学
大学院生が「わすれられないおくりもの」を推薦していたので、気になって読み直してみた。

ある日、老アナグマはふわりと浮いて長いトンネルの向こうにいってしまった。どうやらこのことは彼の死であったらしいが、それを悲しむ彼と親しい動物たちは、彼が自分たちに教えてくれたことを冬の間中に時間をかけて確認し、春には悲しみを消滅させていた話。モグラが一番悲しんでいたのは、彼がアナグマに似ていたからであろうか?モグラ、キツネ、カエル、ウサギ、みんな地から離れられない、どちらかといえば地下に潜ったりする動物であろう……。アナグマも、死の際に地上から離れなかった。これには意味があるであろう。彼らには天への憧れはないようにみえる。

私は芥川龍之介の「トロッコ」とか安部公房の「鞄」を思い出した。「トロッコ」の少年は、トロッコにつられて予想外に遠いところまでいってしまった。「鞄」の語り手は、鞄の重さにつられて歩みを止めることができない。「私は嫌になるほど自由だった」と語りを終えている。