ホリエモン氏がどうやら実刑を喰らいそうな感じらしい。私は彼に逢ったことないし、宮台真司と神保哲生の番組にでてるのをみたのと、オタキングと対談してるをみたのと、本を二冊ぐらい読んだ程度なので、よくわからない。しかも事件の金関係の話はちんぷんかんぷんなので、さっぱりだ。私はなんとなく彼の狙っていたのは、株式をつかった共産主義みたいなものだと思っているのであるが、たぶん間違っている(笑)諸行無常な資本主義もみんながホリエモンに投資すると共産化するという(笑)
じつは妙なところで彼と関係があった人が突然目の前に出現したことがあるが、まあそれはどうでもよい。であるからして、以下は私の持った彼のイメージから導き出される妄想である。
どうも彼は昔の左翼小児病という感じがする。判断は良くも悪くも速いし、ときどき鋭いことも言うし、ファイティングスピリットもありありなのであるが、敵を自分以外の「みんな」だと思ってしまう癖があるのではなかろうか。要するに世の中に対する分析がまあまあ当たっていても、具体的な他人に対する洞察力や心情を忖度する力が、別に偽装ではなしに、本当に低いのである。こういう自意識だと本当に知的な人間を味方にしておくことはできない。彼が成功しているうち、そして文句をつけられるのがめんどくさい時節には、彼のミスをフォローしている人間も、遠からず、いつか彼のミスを派手に必要以上に彼におっかぶせようと画策するようになってしまうのである。彼としては、情報音痴だったり能力がないために人間関係でこつこつ生きるだけの人間たちが世の中を旧態依然としたつまらないものにしてしまっている、と思っているのかもしれないし、実際そういう側面はある。しかしそれを旧世代とか権力とか常識にとらわれている人々というかたちで抽象しがちであり、そのことによって自分もやや抽象化した英雄になりがちなのである。──これは確か南直哉が言っていたが、おそらく彼は金儲けよりイデオロギーが好きなタイプなのだ。……無論それだけではモチベーションがもたないので、あとはとりあえず、自分が幸福になれそうなかたち──欲望を軸に本音を言うことで、社交辞令につつまれた言説空間を破壊していくうちに、自分の勢いに押されて自分を邪魔する人々が退散してくれるかも知れない、と思う。だからというわけではないが、対立する人がいなくては自分のエネルギーも枯渇しそうだから、がんばって古そうな人達と闘う。そのうちに、相手も彼もプロレスみたいな劇をまわりからも期待され、自らも自分の発言の反響ばかりを気にするようになってしまう、という感じである。確かに反響はすごいんだよね、今回も、彼を擁護する声もすごかったけど、「塀江もんの誕生である」「ついにホラレモンw」とか……彼は、完全に「ネタ」になってしまっている。
気がついたら、左翼小児病とはやや違っているような気がしてきたが、彼がはじめから自己演出をあまり意識的にやっていなければ、の話である。
ともあれ、彼のようなイメージを振りまいてしまう人間は、しまいにゃガス抜きに利用されてしまう。そして、彼みたいな、敢えて空気を読まない突撃劇みたいなものを、彼の勉強とか本当の狙い(←あったかどうか知らんけど)をすっ飛ばして模倣しようとする人間が多くなるとそれはそれで悲惨である。とりあえず、コミュニケーション能力とは勢いだとか思ってしまった人間は、確実に、脅し優先で他人に対するようになる。無論、こんなことは彼登場以前にも其処此処にあった現象であるが、それが社会的な当為にすらなりかねない。ガキであった方が勝ちという。以前、島田雅彦の言う「青二才」をイロニーととらずに、本気で青二才たらんとしてた馬鹿が大学院などにもたくさんいたが、今度はそれ以前的な状態に戻ろうというのだから……。こういう戦略は演技のうちはいいかもしれん。ひとがちょっとびっくりしてくれるから。しかしその大きな欠点は、次第に本当に幼くなってしまうことである。仮面の肉体への浸透力を侮ってはならない。
ゼミの時にも言ったが、結局、文章の狙いをそれを評価する以前に厳密に忖度する訓練とかを怠った結果、上記のような糞コミュニケーション優先主義みたいなのが蔓延っていると思うのである。文学の教員として思うのは「ほれ、みたことか」である。
私はホリエモンのことは全く知らないが、彼が目立ってしまう、あるいは目立たされてしまう社会はかなり不健全だし、彼も本当はそう思っているのではなかろうか、と思う。あるいは、本当に目立ちたいだけの阿呆かもしれないし、悪辣なことをやったのかも知れない。繰り返すが私は何も知らないけども。
とりあえず、彼を塀の中に放り込んだ連中が何を考えているのか分からんが、これだけは左翼文学研究者として言っておく。──戦後、塀から出てきた左翼の一部は、ヤクザの親分も顔負けに歓声に包まれ威張って出てきた。
じつは妙なところで彼と関係があった人が突然目の前に出現したことがあるが、まあそれはどうでもよい。であるからして、以下は私の持った彼のイメージから導き出される妄想である。
どうも彼は昔の左翼小児病という感じがする。判断は良くも悪くも速いし、ときどき鋭いことも言うし、ファイティングスピリットもありありなのであるが、敵を自分以外の「みんな」だと思ってしまう癖があるのではなかろうか。要するに世の中に対する分析がまあまあ当たっていても、具体的な他人に対する洞察力や心情を忖度する力が、別に偽装ではなしに、本当に低いのである。こういう自意識だと本当に知的な人間を味方にしておくことはできない。彼が成功しているうち、そして文句をつけられるのがめんどくさい時節には、彼のミスをフォローしている人間も、遠からず、いつか彼のミスを派手に必要以上に彼におっかぶせようと画策するようになってしまうのである。彼としては、情報音痴だったり能力がないために人間関係でこつこつ生きるだけの人間たちが世の中を旧態依然としたつまらないものにしてしまっている、と思っているのかもしれないし、実際そういう側面はある。しかしそれを旧世代とか権力とか常識にとらわれている人々というかたちで抽象しがちであり、そのことによって自分もやや抽象化した英雄になりがちなのである。──これは確か南直哉が言っていたが、おそらく彼は金儲けよりイデオロギーが好きなタイプなのだ。……無論それだけではモチベーションがもたないので、あとはとりあえず、自分が幸福になれそうなかたち──欲望を軸に本音を言うことで、社交辞令につつまれた言説空間を破壊していくうちに、自分の勢いに押されて自分を邪魔する人々が退散してくれるかも知れない、と思う。だからというわけではないが、対立する人がいなくては自分のエネルギーも枯渇しそうだから、がんばって古そうな人達と闘う。そのうちに、相手も彼もプロレスみたいな劇をまわりからも期待され、自らも自分の発言の反響ばかりを気にするようになってしまう、という感じである。確かに反響はすごいんだよね、今回も、彼を擁護する声もすごかったけど、「塀江もんの誕生である」「ついにホラレモンw」とか……彼は、完全に「ネタ」になってしまっている。
気がついたら、左翼小児病とはやや違っているような気がしてきたが、彼がはじめから自己演出をあまり意識的にやっていなければ、の話である。
ともあれ、彼のようなイメージを振りまいてしまう人間は、しまいにゃガス抜きに利用されてしまう。そして、彼みたいな、敢えて空気を読まない突撃劇みたいなものを、彼の勉強とか本当の狙い(←あったかどうか知らんけど)をすっ飛ばして模倣しようとする人間が多くなるとそれはそれで悲惨である。とりあえず、コミュニケーション能力とは勢いだとか思ってしまった人間は、確実に、脅し優先で他人に対するようになる。無論、こんなことは彼登場以前にも其処此処にあった現象であるが、それが社会的な当為にすらなりかねない。ガキであった方が勝ちという。以前、島田雅彦の言う「青二才」をイロニーととらずに、本気で青二才たらんとしてた馬鹿が大学院などにもたくさんいたが、今度はそれ以前的な状態に戻ろうというのだから……。こういう戦略は演技のうちはいいかもしれん。ひとがちょっとびっくりしてくれるから。しかしその大きな欠点は、次第に本当に幼くなってしまうことである。仮面の肉体への浸透力を侮ってはならない。
ゼミの時にも言ったが、結局、文章の狙いをそれを評価する以前に厳密に忖度する訓練とかを怠った結果、上記のような糞コミュニケーション優先主義みたいなのが蔓延っていると思うのである。文学の教員として思うのは「ほれ、みたことか」である。
私はホリエモンのことは全く知らないが、彼が目立ってしまう、あるいは目立たされてしまう社会はかなり不健全だし、彼も本当はそう思っているのではなかろうか、と思う。あるいは、本当に目立ちたいだけの阿呆かもしれないし、悪辣なことをやったのかも知れない。繰り返すが私は何も知らないけども。
とりあえず、彼を塀の中に放り込んだ連中が何を考えているのか分からんが、これだけは左翼文学研究者として言っておく。──戦後、塀から出てきた左翼の一部は、ヤクザの親分も顔負けに歓声に包まれ威張って出てきた。