★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

アリスたちに惑乱すべし

2011-04-25 16:44:32 | 思想
昨日、西原理恵子の感想を起点に、「アリス・イン・ワンダーランド」の感想を書いていて思ったんだが、たしかに最近、対立している者に対して、どっちの言ってることも分かるよと言って客観的な態度とることが批評的だと思っているやつが多く、私もその気がある、と思った。バランスを取るだか、相対化するだかしらないが、その実だいたい処世術に他ならない。夜、アリス・リデルに捧げられたオリジナル版を読み直していて思ったが、穴に落ちるアリスには、子どもにはありがちな似非批評家的な側面がある。(これが我々の心を意外とくすぐるのである――)いわば、まだ人生の手前なのでそうなっているに過ぎないけれども……。我々は、このような世界には二度と帰ることはできない。リアリズムが必要なのはそういう認識のあとである。しかしそれはなかなかうまくいかない。だからといって、アリスのみた世界こそが現実である、といいたげな安部公房も、やはり現実がみえているわけではないのではないか……、少なくとも我々のいる言論の世界は、そんな課題を解けないので(←残念ながら小説家たちがまずこの課題から降りたんじゃねえかな……)、抽象的な図式で現在の現実をねじ倒すか、歴史的な推移を参考にすれば未来も読めるといった余裕を見せようとしているに過ぎないのではないか。

ときどきNHKの「日曜美術館」を録画しているが、昨日は、ちょうどルブランとダビットというフランス革命のときの画家が取り上げられていたのでみた。番組は、アントワネットの友達ルブランも市民側についたダビットも、革命のごたごたや絵画の潮流に翻弄されました……、といった「どっちの言っていることも分かるし大変だったろうねえ」、といった批評態度が、やっぱり前面に出ていたような気がする。そしてなんとなく最後は、美の観念にこだわった女性ルブランより、観念に踊らされてフランスに帰れなかった男性ダビットの方が、なんだかアワレね……、という感じで紹介されていた。しかし、二人の晩年の作品──ルブランの「ミゼノ岬のコリンヌに扮したスタール男爵夫人」と、ダビット「ヴィーナスと三美神に武器を取り上げられるマルス」を比べると、後者はなんだか中途半端にみえる、という解説は、はたしてそうか……?という感じがする。ヴィーナスと三美神の顔はなかなか楽しそうで良いではないか。

私は、不偏不党の構えよりも、まずは作品をよくみなきゃね、と少なくともそう心掛けたい。