★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

「再生」対「元通り」

2011-04-06 09:33:43 | 映画
映画「2012」は、地軸がひんまがるほどの大地震と津波で世界が滅亡、とおもいきや、主として先進国の金持ちとか、家族愛があった一部の人とかがノアの方舟で生き残る話。アメリカやヨーロッパやインドはたぶん水没。なぜかアフリカが1000メートル隆起して、みんなでそこに移り住もうというところで終わる。明らかに旧約聖書の話であるが、方舟のエピソードをローカルな洪水の話とする解釈を絶対に許さない。チベット仏教の聖地やローマの聖地までも洪水で押し流し──イスラムは初めから無視されていたような気がする──、新たな人類を人類の発祥の地でやり直そうという、……もう書いていて怖ろしくなってきたが……、都合のよい黙示録のお話である。主人公が黒人だったから、故郷に帰ったつもりなのか。勝手に故郷に帰ったら、またひどいことになるのではなかろうか……

……途中で寝てしまったので、なんともいえんが、そんな話だった気がする。

このような破滅の話は、今回の原発事故でとどめを刺されたに違いない。もはやノアの方舟では、空が晴れたからいって、外には出られない。何とかシーベルトを測定しなければならないからだ。海水検査も必要だ。この映画のような規模の破滅なら、新世界をつくる結末はあり得ない。本当の破滅、少なくともノアの方舟後のじりじりと破滅が続く悲惨な世界が描かれなければならない。

ただ、私たちは、〈破滅からの再生〉をつねに思い描いている文明を単に馬鹿にしているだけではいけないであろう。世界は、私たちのように〈元通り〉を願っている人々ばかりではないのである。〈元通り〉は〈再生〉とは違うのではなかろうか。いや、もう我々は〈元通り〉すらのぞんでいないかもしれない。破滅の中で生きることに慣れてしまったかも知れない。原爆を落とされても破滅ではない、その中で生きる他はなく、実際に生きられる、放射性物質を垂れ流してもなんとかなる、生きられるということにしてしまえばなんとかなる、このような感情が我々の中にあるかも知れない。

東京に行ったあと、この映画をみて、そう私は思った。