★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

桜グッドバイ

2011-04-11 09:56:53 | 文学


もう桜散るの時節である。よく見えないかも知れませんが、実際派手に散りつつある。というわけで、猫ちゃんが桜散るを見物しに来ました。


「君も、しかし、いままで誰かと恋愛した事は、あるだろうね。」
「ばからしい。あなたみたいな淫乱じゃありませんよ。」
「言葉をつつしんだら、どうだい。ゲスなやつだ。」
 急に不快になって、さらにウイスキイをがぶりと飲む。こりゃ、もう駄目かも知れない。しかし、ここで敗退しては、色男としての名誉にかかわる。どうしても、ねばって成功しなければならぬ。


「恋愛と淫乱とは、根本的にちがいますよ。君は、なんにも知らんらしいね。教えてあげましょうかね。」
 自分で言って、自分でそのいやらしい口調に寒気を覚えた。これは、いかん。少し時刻が早いけど、もう酔いつぶれた振りをして寝てしまおう。
「ああ、酔った。すきっぱらに飲んだので、ひどく酔った。ちょっとここへ寝かせてもらおうか。」
「だめよ!」
 鴉声が蛮声に変った。
「ばかにしないで! 見えすいていますよ。泊りたかったら、五十万、いや百万円お出し。」


 すべて、失敗である。
「何も、君、そんなに怒る事は無いじゃないか。酔ったから、ここへ、ちょっと、……」
「だめ、だめ、お帰り。」


 キヌ子は立って、ドアを開け放す。
 田島は窮して、最もぶざまで拙劣な手段、立っていきなりキヌ子に抱きつこうとした。


 グワンと、こぶしで頬を殴られ、田島は、ぎゃっという甚だ奇怪な悲鳴を挙げた。その瞬間、田島は、十貫を楽々とかつぐキヌ子のあの怪力を思い出し、慄然として、
「ゆるしてくれえ。どろぼう!」
 とわけのわからぬ事を叫んで、はだしで廊下に飛び出した。
 キヌ子は落ちついて、ドアをしめる。


 しばらくして、ドアの外で、
「あのう、僕の靴を、すまないけど。……それから、ひものようなものがありましたら、お願いします。眼鏡のツルがこわれましたから。」


 色男としての歴史に於いて、かつて無かった大屈辱にはらわたの煮えくりかえるのを覚えつつ、彼はキヌ子から恵まれた赤いテープで、眼鏡をつくろい、その赤いテープを両耳にかけ、


「ありがとう!」
 ヤケみたいにわめいて、階段を降り、途中、階段を踏みはずして、また、ぎゃっと言った。
(太宰治「グッド・バイ」)

ナルニア神学論争

2011-04-11 07:27:11 | 思想
「ナルニア国物語 第1章──ライオンと魔女」を観た。観はじめて、昔読んだ「ナルニア国ものがたり」のことだと気づく。まず題名で気づけよ……。あ、この話の結末は、人には言ってはいけない類のものではないか……、と自分に言い聞かせているうちに、あまりにも〈筋を追ってます〉という映画の進行ぶりに瞼が閉じかかってしまう。

ドイツに爆撃されるロンドンから疎開した子どもたちが、仮の宿である学者先生の家の衣装箪笥の中に入ったら、ナルニア国という魑魅魍魎が跋扈する世界に迷い込んでしまった。そこで魔女とか、予言への信仰を強要するビーバーとか、救い主のライオンとか、がでてきて子どもたちを試す。なんだかしらないが、突然サンタクロースまで現れ、武器をくれたりする。救い主ライオンが罪を犯した次男の代わりに死んだと思いきや、案の定復活するが、そのうらで正義に目覚めた子どもたちが、魔女率いる軍団と戦争をおっぱじめている。最後は、ライオンが助けに来て魔女を***。なぜか、こどもたちは、ナルニア国の王様になってしまう。……何年かして、すっかり王様気分で歳をとっていた彼らであるが、偶然衣装箪笥から元の世界に戻ってくる。

やっと第一章終わりか……。この物語の最後の最後の結末まで私は知っている。故に、とりあえずおまえらはやく全滅すればよいのに、と思ってしまった。

そもそもこれは聖書の話である。神の国は現実にあるのかイデア的なところにあるのか、復活したのはキリストか神の子か、ハルマゲドンはあるのか、聖書はどこまで信じるべきなのか、などなどの論争に火をつけたいとしか思えない話である。それにしても、この物語の作者と喧嘩したカール・バルトなんかも、物語を一生懸命書けばよかったのに……。そうすれば、もっと万人に知られていたかもしれない。バルトをあまり読んだことはないが、やっぱりそれは無理だったのであろう。西田幾多郎が小説を書かないのと同じようなことであろう。私の興味は、例えば西田を否定したときに、我々がどのような神学的な物語に陥るかということである。「ナルニア国ものがたり」は、そのような物語の例として私にはうつった。

ある人々が言うように、現代は宗教論争の時代であろう。実際に悪魔や精霊がスクリーン上で跋扈することによって、ますますそれは加熱するであろう。しかし、少なくとも、目には目を、ではないが、映像には映像をというかたちで加熱しはじめたら、もうおしまいだと私は思う。バルトが必要である。

こんなことを考えたのは、昨日、郷原佳以氏の『文学のミニマル・イメージ』というモーリス・ブランショ論を読んだからかもしれない。私は、すごくこの本を懐かしくよい意味で楽天的なものだと思った。この本が終わったところから郷原氏はどうするんだろうと思った。私は、氏の言うように「文学と他の芸術を接続すること」がこの本の後に可能であるとはあまり考えない。

ところで、映画のなかで正義のきつねが出てきたのであるが、吹き替えをやっているのが、シャア大佐だった。すぐ死んだけど。