アニメーション映画「イヴの時間」は、アンドロイドと人間を区別しないというのが決まりのカフェ「イヴの時間」でのお話。綺麗なお姉さんみたいなアンドロイドを飼っている高校生が、勝手にそのカフェに入り浸っていた彼女を追跡するところから始まる。普段はアンドロイドは、頭の上に天使の輪みたいなものがみえるので、それと分かる。しかしアンドロイドの容姿自体は普通の人間とは区別できないほどになっているので、天使の輪を消したそのカフェの中では、人間と区別がつかない。ひいては、明らかにロボットです、という容姿の旧型が入ってきても、彼には実は人間的な心がありました的なことを見出すのが、このカフェの必然である。手塚以来の──もっといえば、その前からロボットの話はそういう趣があるんだけども──、ロボットと人間にある差別をなくそうという話である。それはもともと、明らかに、労働問題や差別問題のメタファーであり、ロボットの純粋性に差別心のかたまりである人間が批評されるという構造の話だったはずである。例の「攻殻機動隊」の一連の映画でも、イデオロギーにまみれ汚い政治ばかりやっているところの人間を、機械化の度合いがそれぞれ違うアンドロイド人間が、やっつけることで、人間とは何か人間とは何か、という問を執拗に繰り返している。
……しかし、果たして「イヴの時間」の場合はどうか。
どうも私は、人間の方がアンドロイド並みになっているとしか思えなかった。人間のしゃべることがあまりに紋切り型過ぎて……あのね、人間はもう少し語彙力とか感情の種類があるんでないの?と言いたくなった。
要するに、この「イヴの時間」にいる人間は、自分たちと同じような感情を共有できたと思えれば人間でも何でもいいのである。そのためには自分のレベルに合わせて人間を改造することもいとわぬのではなかろうか。(ごめん、ここは私の妄想)対して、アンドロイドをやっぱり人間とは違うと見なす人達とか、気に入らない人達とかが、自分たちとは違う人間何物かとして排除されているとさえ考えられる。ここでは、自分たちの純粋さでわけわからない人間何物かたちを批評するというわけで、……ほぼロボットを出してくる意味はなくなっている。最近よくある、自分を裏切った両親とか友達をナルシスティックになじるガキの話とほとんど同じである。別に裏切ったっていいではないか、あり得る話ではないか、人間なんだから……。裏切られた人間は、まずは自分を反省しろっ。息子と仲良くなりすぎたアンドロイドに「しゃべっちゃだめ」と命令し、奥さんにも逃げられたおやじはすごく人間的だっ。そんなおやじの心も分からずに、アンドロイドに「裏切られた~」とか八つ当たりしているその息子はほとんど人間ではない。人間に改造してもらえ。
……というわけで、案の定、途中で寝てしまったので、よくわからないのだが、そんな話であろうか。
谷崎の「瘋癲老人日記」が、作者の朗読でCDになったらしい。読者のゆるい妄想を粉砕するために人間谷崎が自らしゃべるわけか。買おうかな……。