★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

顔面を人格の意味に用いることの萌芽であった

2014-08-12 23:07:00 | 大学
http://www.asahi.com/articles/ASG843RLPG84UTIL00C.html?iref=comtop_6_01

就職おすすめ度、ウラ情報込み 大学で元社員が直接指導
2014年8月12日19時35分

……「面接は第一印象が大事」。出口さんは、ドアの開閉や敬語の使い方などを指導した。「お辞儀は『失礼いたします』と言ってから」「笑顔を絶やさない」。浅野さんが面接で実践すると、面接官に「とても落ち着いた印象を受けました」と褒められたという。

この前も面接の練習につきあわされたんだが、揃いも揃って、不自然なニコニコ顔に、練習しましたという不自然なドアの開閉と敬語、で、内容のあること言うかと思ったら、これが明らかに中学生がかっこつけてる感じの内容で……。聞いてみると、「いかにも勉強してきましたという頭でっかちな感じではなく、人間的な感触の良さ」が問われているらしい。頭でっかちなやつなんか、この頃久しく見ていないのであるが……、それはともかく、一体、企業や教育現場が何を求めているのか、最近さっぱり分からなくなってきた。私の貧しい部活動の経験から言えば、舞台への入場の練習とかをやっている吹奏楽部は、すごくうまいか、すごく下手かのどちらかであって、前者と後者の割合は、1対300(←適当)ぐらいとみた。後者は、合奏の力で個人の欠点をカバーしようという発想が濃厚である。言うまでもなく、その発想は、完全に間違っている。また、合奏(実践)をすぐしたがるのも特徴である。音階もろくにできないのに曲がふけるわけがない。しかしそれが分かっているために逆に基礎練習が怖くなり合奏したがるのである。そりゃ少しはハモって愉しいからな。でもそれだけである。そして、そのいまいちさを解消するために内部で必ずいじめがある。……全く同じ事が、実践をありがたがる学問(教育)分野すべてに当てはまる。

大学の就職関係の動きについては、どの大学でもそうかも知れないが、ともかく全てが間違っているように感じられる、しかし、就職率のデータをよくしろと方々から脅迫されているからやっているだけで、別に学生の将来とかを心配している訳ではないのは明らかなので、気の毒で(誰に対してか分からんが……)、誰もが突っ込まなくなっているだけである。

ところで、わたくしは、面接という言葉に出会う度に、和辻哲郎の次の台詞を思い出す。

 面という言葉はペルソナと異なって人格とか法人とかの意味を獲得してはおらない。しかしそういう意味を獲得するような傾向が全然なかったというのではない。「人々」という意味で「面々」という言葉が用いられることもあれば、各自を意味して「めいめい」(面々の訛であろう)ということもある。これらは面目を立てる、顔をつぶす、顔を出す、などの用法とともに、顔面を人格の意味に用いることの萌芽であった。(「面とペルソナ」)

企業や教育現場が、求めているのは、礼儀作法とかいうことよりも、もう少し違ったことではなかろうか。たぶん面と人格の関係が信じられないのである。「面目を立てる、顔をつぶす」等々の場面を思い浮かべてみると、若者にその昔ながらの行動を要求するのが難しい感じがする。上司を尊敬はするし、崇めることも場合によってはするであろう。しかし、「面目を立てたり、顔を立てる」ことが難しくなっているような気がする。言うまでもなく、他人の面目を立てることが出来る人間は、他人の面目を殊更立てようとする人間ではない。敬語に関してもどうも様子がおかしい。相手を尊敬するしないこととは関係なく、お互いの個人の面目を保つために使われるのが敬語なのである。……かかる感覚が分からないのであれば、せめてそれらしい「面」を着けてくれ、という悲痛な現場の叫びを聞くべきかも知れない。

大学で、そういう叫びに答えるとすれば、就職対策じゃなく、みっちり学問をやらせて謙虚な人間をつくるしかないような気がするんだが……

……という具合に、社交辞令的論理を展開していると疲れてくる。企業は企業で、教育現場は教育現場で、君は君でやってくれませんかね……人のせいにしないで、というのが大概の大学教員の本音であろう。

おためごかしからの逃走

2014-08-12 10:13:08 | 大学


昔、高峰秀子様がどこかで言っていたのだが、教科書は一人では読めないけれども本なら一人で読める、と。これは重要なことである。高峰秀子の文章に、学校化された文章、というかなんというか、教師特有の「おためごかし」的なニュアンスが殆ど感じられないのは、彼女が学校に行かず教科書で勉強していないというのが大きいのかも知れない。教科書には、書物としてのいわば一貫した意図がない。あえてそれを読もうとすれば、グローバル化対応とか、富国強兵とか、文化国家とかいう、まさに「おためごかし」が出てくるだけである。ところが、学校というのは、そういう下らぬものを一応錦の御旗として掲げないと、優等生、というより劣等生にはなりたくない劣等生という層がついてこないのである。つまり教科の内容は理解できないが、その「おためごかし」だけは理解できる層というのは、教師も含めて非常に多い、最近、すぐ授業中に「交流」とかしたがる輩はそういう奴らである。学びの自主性とかいう御旗を掲げているが、その実、教科内容を自分が理解できる程度へ引きずり下ろしコンプレックスを解消したい連中の自己満足に終わり、結果的に、学びの自主性を持った連中の邪魔をするのが目的になっている。(最近、聞いた話によると、授業の前には必ずなにか児童や生徒を褒めなければならないという方法論があるそうである。何をやりたいのかわからんが、たぶん「ご機嫌伺い」であろう)我々は教科内容とともに、そういう妙なおためごかしに関わる心理的からくりを繰り返し教え込まれている。特に、国語や道徳の教科書は、オムニバスだから、作品と作品の間にすきがある(笑)ので、危険である。国語の授業が、作品と関係ないことを教えてしまうのは、全面的に作家論のせいとか、教師の無能のせいばかりではなく、作品が教科書に載っていることからも来るのではなかろうか。

作品を面白く語れないのに、話し合いでごまかそうとしたり、作品を心のケア(笑)の道具にしたり、しまいにゃ、体育と称して運動場で劣等生と優等生をいじめてみたり、命の大切さを説いてみたり……、と。子どもたちよ、はやく学校から逃走せよ、と言いたい。一緒に教師も逃げても良いかもな……。最近は、大学まで学校化が進んでいて、素人のくせに大学の教員まで教師面するようになってきたから、大学も逃げ場ではないのかもしれない。かんがえてみりゃ、おためごかしを内面化しなければならないような学問をやり、まじめな学究タイプを研究と関係ないところでいじめて勝ち上がってきた連中が研究者の殆どを占める様になってしまっているから、大学が本質的に学校的になるのは当たり前だ。

大切なのは、道徳や心のケアではなく、作品と治療である。

とはいえ、おそらく「逃げた」結果が、今の状態なのである。