★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

ノーベル賞の季節がやってまいりました

2016-10-04 10:42:44 | 大学


普段、「学者の上から目線は腹立つ」とか「勉強できりゃいいというもんではない」とか、「インテリの世間知らず」とか言ってる(全て本当のことである。しかし、だから何?)くせに、ノーベル賞がでると「米国籍をもらった人(←おいっ)も含めて25人ですっ」、「日本人の学者は最先端を行っている」とか絶賛する精神的奴隷がボウフラのように沸いてくる季節ですが皆さんいかがお過ごしですか。

オリンピックで金メダリストに「日本人の誇りでっす」とか言っている精神的奴隷を見ていらいらする季節が過ぎたら、今度はノーベル賞です。

すべて「テメエのことじゃねえよ」で済む事態です。

ところで、ノーベル賞を受賞した学者が時々、今の研究資金のあり方に――すなわち、大学(つまり国)が金をださず競争的資金を盗ってこいと学者たちをいじめている事態に文句を言うことがありますが、競争的なんとかが死ぬほど大好きな人たちもいるので何とも言えません(なわけないです)。とりあえず、競争的なんとかが、私の読書を妨害していることは確かです。昨日も、ジャンケレヴィッチの「死」を読んでいて面白くなってきたところで書類に邪魔されました。「死」ぬまでこの怨みは忘れません。

学者の世界は、この季節になると、「なぜさっさとオレにノーベル賞を与えない」と思っている人でいっぱいです。完全に狂っております。私も、昨日、細君に向かって「えっ、今年もオレじゃないの?」と放言してしまいました。

だいたい文学賞はなぜただれた小説家にしか与えないのでしょう?デリダやなんとかがもらってもいいじゃないですか。(もう死んでるか)そうすれば、大江健三郎みたいなエゴが、柄谷行人とか蓮實重彦だけでなく、若い批評家たちにも生じ、うちの業界もさらに腐敗が進むでしょう。要するに、うちの業界に足りないのは狂気です。正しくも「生きよ堕ちよ」とか言ってるからいけないのです。