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いかにもてなすべき身にかは。 一所おはせましかば、ともかくも、 さるべき人に 扱はれたてまつりて、宿世といふなる方につけて、身を心ともせぬ世なれば、皆例のことにてこそは、人笑へなる咎をも隠すなれ
よくわかりませんが、親に選ばれた夫ならよいそうです。そんなわけないでしょうが。親は親で自分の生活を考えているに決まってるでしょうが。
ある限りの人は年積もり、さかしげにおのがじしは思ひつつ、心をやりて、似つかはしげなることを聞こえ知らすれど、こは、はかばかしきことか。 人めかしからぬ心どもにて、ただ一方に言ふにこそは
「人めかしからぬ心」というのが、もうプッツンしていることを示すようですごい……。親のすすめはきくけれども、使用人の言うことは聞かない大君であるが、まあわかります。この国にはろくな奴が居りせんねえ……GOTOHELL
カヲルくんが寝所に放り込まるのを察して自分だけ逃げて中の君とカヲルくんをくっつけようと画策した大君。しかし、カヲルくんはなにしろ、源氏の嫌みで死んでしまうほどの一途な男の息子、――一晩、中の君とお話ししただけで終了。今度は、カヲルくんはニオウ氏(こっちは源氏の血がわんさか流れている御仁)に中の君の寝所を襲わせ、大君を説得しようと頑張る。
でも結局、大君はまもなく死んでしまうのだが、場面は慌ただしい。カヲルくんと大君の会話に続いて、修法の阿闍梨たちの加持祈祷が始まり、続いて
「世の中をことさらに厭ひ離れね、と勧めたまふ仏などの、いとかくいみじきものは思はせたまふにやあらむ。 見るままにもの隠れゆくやうにて消え果てたまひぬるは、いみじきわざかな。」
引きとどむべき方なく、足摺りもしつべく、人のかたくなしと見むこともおぼえず。限りと見たてまつりたまひて、中の宮の、後れじと 思ひ惑ひたまふさまもことわりなり。 あるにもあらず見えたまふを、例の、さかしき女ばら、「 今は、いとゆゆしきこと」と、引き避けたてまつる。
注釈によっては、紫式部は仏教に対する不信感を持っている、とある。そうであるかは分からんが、死は恋や人間関係や祈禱のなかで「見えないもの」なのである。
中田考氏は『私はなぜイスラーム教徒になったのか』のなかで、
私としても、現世的には「なってよかった」ことは何もありません。あったとすれば、なにもいいことがなくても平気になったということくらいでしょうか。ですから、ぜひムスリムになりましょう。
と述べている。源氏物語の男女たちに足りないのは、こういう感じである。とにかく恋の快楽と葛藤が強烈すぎて、仏門に入って一気に「無」になろうとしてもそんなわけにはいかぬ。八の宮とその娘たちは、その中間地帯で「煉獄」みたいな苦しみを味わうことになっている。結局、原因は、光源氏の強烈な恋の行為の光の存在な訳でで、――周りが不幸になってしまい、その中間地帯に導かれていく。こういう異常者はときどき出現してしまうので、彼より上の存在が必要なのだ。天皇?――それが上ではないことは、源氏物語が示しているとおり。こういう存在が、一応人間の集團のメンツを支えることになっている限り、民主主義によってはそれを否定することは難しいであろう。むしろ、民主主義の葛藤の末に天皇に行き着くことになりかねないのである。