★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

鉄焼もまた失せざりけり

2019-09-22 23:28:35 | 文学


宗盛卿急ぎ出でて見給ふに、昔は煖廷今は平宗盛入道、といふ鉄焼をこそしたりけれ、大将、憎い競めを切つて捨つべかりけるものを手延びにして謀られぬる事こそ安からね、今度三井寺へ寄せたらんずる人々はいかにもしてまづ競めを生捕にせよ、鋸で首斬らん、と躍り上がり躍り上がり怒られけれども煖廷が尾髪を生ひず鉄焼もまた失せざりけり

渡辺競は貰ってきた馬を仲綱に差し上げる。仲綱は大喜び、「昔は煖廷今は平宗盛入道」と焼き印を押して宗盛の厩舎に放り込んだ。それをみつけた宗盛は大激怒。「憎い競めを切つて捨つべかりけるものを手延びにして謀られぬる事こそ安からね」というのが馬鹿すぎる。騙されたのは自分でその結果「憎い」と思ったのに、「憎い競」が自分を騙したのはむかつくぜ~という論理であって、――原因と結果がいつもひっくり返るレベルのお方であった。

しかし我々は自分もふくめて、大概はこんなレベルであると考えた方がいい。自分は美男の競だと思っていても大概は宗盛の方だ。

「躍り上がり躍り上がり怒られけれども」とは、辛辣である。スーパーボールのように宗盛は跳ねている。もはやマンガである。物語がこの水準に移行したら、馬の髪は絶対に生えてこないに違いない。

ウィキペディアにも書いてあったが、新田義貞が鎌倉幕府攻撃に使った馬のDNAは木曽馬だったそうだ。義仲が何に乗っていたのかは知らんが、とにかく洋種が入ってない馬である。わたくしは何度も木曽馬をみておるから分かるが、とにかく短足でのっしのっしと歩く。木曽馬を、というより、馬を戦争に使うように育てるにはどうしたら良いのかわたくしには見当もつかない。しかし文学はそういうことを考えることも必要ではなかろうか。

彼の社会的生命はかくの如く短少也。しかも彼は其炎々たる革命的精神と不屈不絆の野快とを以て、個性の自由を求め、新時代の光明を求め、人生に与ふるに新なる意義と新なる光栄とを以てしたり。彼の一生は失敗の一生也。彼の歴史は蹉跌の歴史也。彼の一代は薄幸の一代也。然れども彼の生涯は男らしき生涯也。
――芥川龍之介「木曾義仲論」

中学生にしては名文だとおもう芥川龍之介の義仲論であるが、たくさん馬という字が書いてあるにもかかわらず、なんとなく馬の姿は浮かんでこない。芥川龍之介は馬という字をみて、なんだか牢屋の前に草が生えているようなものを読み取ってしまうような感性をしていたに違いない。そういえば、「馬の脚」なんてのも書いていた。わたくしは「鉄焼もまた失せざりけり」というところに、何も出来ずに何年も悲しみのなかに過ごしている人馬の姿をみるのだが、――無為というのも行動であるとは、芥川みたいな優等生は思いつかなかったのである。考えてみると、宗盛なんていうのも、恐ろしい父親の元に生まれ、周りからはバカにされ、精一杯怒りまくっているのかもしれないのだ。